城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

上之国花沢館

 北海道の渡島半島日本海側、桧山郡上ノ国町字勝山にある山城跡(国指定史跡)。いわゆる道南十二館の一つで、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いでは、茂別館(北斗市茂辺地)と花沢館が残り、他の城館は、コシャマイン軍によって陥落したという(新羅之記録)。その後花沢館館主蠣崎季繁の客将武田信広の奮戦によってコシャマイン父子を七重浜七飯町)で討ち取り、合戦が終息した。武田信広蠣崎季繁の娘婿となり、蠣崎家を相続。15世紀の後葉、西方に勝山館(国指定史跡)を築城。子孫はやがて松前大館(国指定史跡)に進出し、松前氏の祖となった。

図1 関連城館位置図

図2 花沢館跡・勝山館跡周辺              (Googleマップに加筆)

 

写真1 北から見た花沢館 矢印の下が主郭

 

写真2 花沢館登り口 現在の登り口、かつては東側の洞状斜面を曲折して登った。現在もその道跡が断続的に残り、上の平場端部に切れ込んだ虎口がある

図3 花沢館縄張図      上ノ国町教育委員会と共同で現地調査し作成した図

 背後の山から派生した尾根が隆起した箇所に主郭①をおいて、背後を堀切り、そこから空堀が東側、西側斜面部を斜めに下っている。前面の斜面部には段築や曲輪②を雛壇状に配しているが、②から五段登った三日月形の平場の斜面際に、幅1m余りの小さな空堀があり、これによって、山頂部の主郭と、それより下の雛壇状曲輪とを分けている。主郭はあまり大きくなく、詰の曲輪のようなものと考えられる。北側麓と主郭との比高は50mほど。②のあたりと北麓とは32mほどである。

 大手口は現在の上り道とは別に、北斜面の洞の中を曲折して登る細い道で、登りきると内側に切れ込んだ、左折れの虎口がある。これが大手の城戸跡だろう。この大手道の東側の突出部には狭小な平場が配され、西側には③の平場が袖状に構えられ、登り道と大手虎口を、三方から弓矢の俯射で守る、強固な構えがみられる。

 現状の②の平場は城内で最も広い平坦地であるが、発掘調査の結果、現状の法面は、後世に大幅に盛土・拡張されたことが判明しており、当時は一段下の平場のほうが広かったと考えられる。この北側一段下は、大手城戸の平場である。この最も広い平場には、館主居館が入っていた可能性がある。

 花沢館の東西両側の小さな沢を隔てた尾根にも、④、⑤の平場群があり、東西両側の砦として機能した場所だろう。

写真3 主郭(詰の曲輪)

 孤立した狭長な曲輪、草ではっきりしないが、中央に背骨のような起伏がある

 

写真4 主郭背後の堀切

 

写真5 背後の尾根からみた主郭 間の低みが堀切、手前の高まりは土塁

 戦後間もないころ、食糧増産のため、この主郭が開墾されて畑となったとき、2000枚ほどの中国銭が採集され、中世擂鉢の破片も出土した。2004年と2005年には、上ノ国町教育委員会による発掘調査が実施されて、ここでも多くの出遺物があった。主郭奥の調査区は、主郭の背骨のような隆起を含めて発掘調査され、隆起と並行、あるいは直交するような小さな溝が確認されているが、掘立柱建物は未確認だった。それにも関わらず、総計261点にのぼる陶磁器破片が出土している。破片で最も多いのは珠洲(石川県)の擂鉢で、206点を数える。そのほかは瀬戸窖窯期の皿1がある。中国製品では染付碗3、白磁皿19、青磁盤1.、同皿2,同碗が29点と集計されている(塚田2007)。
珠洲の擂鉢が卓越しているのは大きな特徴であるけれども、その理由は不明。出土資料の9割以上が主郭内とその直下の調査区から出土したという。そして陶磁器の年代から、花沢館の存続期間は、安藤氏が南部氏との抗争に敗れて津軽十三湊を退去した永享4年(1432)から、勝山館築城前の1460年代までと推定されている(塚田2007)

 主郭調査区の小さな溝などは、小規模な小屋掛風の建物に関係するものかもしれないが、遺物の出土状況を見れば、廃城直前に主郭に居住していたことが明らかである。中国銭の出土量も多く、廃城の時物を整理して移動することがかなわなかった可能性がある。新羅之記録では花沢館は陥落しなかったと記されているが、実際には落城した可能性も視野に検討すべきなのかもしれない。

 

引用文献

上ノ国町教育委員会2006年3月『町内遺跡発掘調査事業報告書Ⅸ』

上ノ国町教育委員会2007年3月『町内遺跡発掘調査事業報告書Ⅹ化研究第5

 号』北方島文化研究会

室野秀文2007年12月「中世道南の領主と城館ー城館から見た蠣崎氏の松前進出ー」『北

 方社会史の視座第三巻』清文堂





安倍貞任伝説の山城 阿部館山(H=1221m)

※ 以前投稿していた、阿部館山登頂記を改稿しました。

写真1 阿部館山遠景 滝沢市八幡館山からの遠望、山の手前市街地は盛岡市

 

1 阿部館山の位置

 岩手県盛岡市と、同県下閉伊郡岩泉町との境界にある大規模な山城跡。標高1221m、盛岡市側の中津川との比高610m、岩泉町側の櫃取との比高は420mの山で、内陸部と三陸沿岸部を分ける、北上山地分水嶺に位置する。周囲の谷は深く刻まれているが、阿部館山南方の区界峠付近から、北の御大堂山、外山、薮川など、山の稜線付近は、なだらかな起伏の隆起準平原である。北側御大堂山南の鞍部は、下閉伊の岩泉と内陸の盛岡を結ぶ釜津田道が通じ、南の区界峠は、盛岡と太平洋岸の宮古を結ぶ宮古街道である。阿部館山の稜線は、なだらかな地形を利用して、南北に縦走する道が考えられる。

 この山の名称は、国土地理院の25000分の1地図では「阿部館山」となっているが、下閉伊郡誌(岩手県教育会下閉伊郡部会1939)では「安倍舘」と記載され、平安時代安倍貞任(あべのさだとう)が立て籠った所と、伝承されている。

写真2 岩泉町ヒエガラ沢から見た阿部館山 山頂南側(左側)にテラス状の段築が見える

 

写真3 椴松沢から見上げた阿部館山 矢印は空堀、本曲輪下斜面に多数の段築

 

写真4 椴松沢北の尾根から見た阿部館山 山頂を周回するテラスが見える

 

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第1図 阿部館山位置図 (国土地理院地図に加筆)

 

写真5 岩泉町小本方面の眺望 彼方にかすかに水平線が見える

 

写真6 山頂から見た早池峰山

 

写真7 山頂から見た岩神山

 

写真8 山頂から岩手山の遠望

 

2 阿部館山の登頂

    夏場は濃密なクマザサと灌木に遮られ、現地に到達することは困難で、仮に到達できても、地表観察で遺構を確かめることが難しい。また、冬場は猛烈な吹雪で遭難の危険が大きい。このため筆者らは、東側の松草峠の林道ゲートが開かれる、4月中旬に、残雪に覆われた状態で、地形の起伏を確かめることにした。この時期ならば、笹や灌木は圧雪で押さえられ、表面の起伏でおおよその地形が判明するはずである。2012年4月15日、山の好天を見計らい、登頂を試みた。

 当日早朝、仲間のF澤氏、T橋氏と3人で盛岡に集合し、山に向かった。櫃取の集落から西へヒエガラ沢添いに進み、間もなく積雪で車の乗り入れが無理になり、林道に駐車。ヒエガラ沢沿いに林道を歩く。やがて林道は、阿部館山北東下の、椴松沢(とどまつざわ)に突き当たる。ここから道は右(北)に折れて、江戸後期の宮古街道(釜津田道)の峠に通じる。この椴松沢から見上げたのが写真3である。沢の北側の尾根に取りつき登りはじめた。この尾根の頂部から、人工的な段築が見られた。北側の出曲輪と仮称したピークを経て、北側の切岸をよじ登り、昼前に登頂。山頂は広くゆるやかな地形で、20数名ほどの登山チームが昼食をとっていた。南東側の櫃取湿原の近くから登ったのだそうだ。我々も三角点近くで昼食をとる。そのあと2時間ほど山頂周辺の地形を調査した。F澤氏は都合により、一足先に、東側から下山。T橋氏と私は14時30分ごろまで山頂付近を縄張調査して、下山。途中、何度か休憩をとりながら、駐車地点まで戻ったのは、あたりが真っ暗になった19時すぎであった。

第2図 阿部館山の縄張図 堀跡を緑色、堀の推定ラインを緑の破線で表示

 

3 阿部館山の遺構

 この山城は、山頂部分の本曲輪。北にやや離れて存在する出曲輪。周辺部斜面に構築されたテラス状の地形からなる。

 本曲輪は南北420m、東西160mの不整楕円形で、空堀と考えられるテラスが周回する。本曲輪の北側は比高差12mほどの切岸となり、その下に二段の空堀が東西に造られている。堀は埋没が進行して、テラス状になっている。また、本曲輪縁辺部やテラス縁辺部も、土が流れて丸くなって、明瞭なエッジが残らない。中世後期の山城の曲輪や堀は明瞭にわかるのだが、ここではやや不明瞭で、長い経年変化を感じさせる。本曲輪の周りには、二重ないし三重以上の堀が構えられている可能性が高く、縄張から類推される堀については、緑色の破線で表示した。規模の違いはあるけれども、秋田県横手市の大鳥井山遺跡(国史跡)の小吉山や台処館とよく似た構造になっている。

 本曲輪北西斜面には、「御金蔵岩」という2本の石柱状の岩が並ぶ。この岩の南側は、比高15m~20mの切岸であるが、北西側の尾根筋からの通路が本曲輪に到達し。その部分の虎口(こぐち)は通路状に切れ込んで、本曲輪中央部に登っている。本曲輪反対側の東側にも浅い通路状の切れ込みがある。

 山頂の稜線は5つのピークになっており、これが盛岡市下閉伊郡岩泉町との境界線になっている。真ん中のピークが標高1221mで最も高く、南側の三角点のあるピークは1218、1mである。頂部本曲輪は自然の起伏を残して、地表を軽く造成し、下の斜面部に空堀を廻らせた構造である。郭内に竪穴建物跡の窪みもあるのかも知れないが、調査時は、笹の上に70cm~80cmの積雪のため、その存否は不明である。

 周囲の斜面のテラス(段築・切岸)は、本曲輪直下のテラスを含めて、西側斜面で5段以上、東側で6段以上、南から南東には5段~7段以上を確認している。調査当日、先に東斜面を下って行ったF澤氏によれば、中腹よりも下のあたりまで段築が連続して設けられていたと云う。写真3の本曲輪下の斜面部を注意してみていただくと、テラス状段築がいくつも構えられていることが分かる。

 南側テラスには、大きな楕円形の池のような窪みがあり、そこから南斜面に水路のような溝が通じている。池のような所には湧水があるのかもしれない。そこから西方には尾根がのびているが、かなり大きな平坦面がある。その先は確認していない。

 北側は二段(二条)の堀があり、東へ延びて、東斜面のテラス群の北側を区画している。麓の椴松沢橋から見えた堀の窪みは、この二条の堀である。

 この堀のある鞍部を隔てて、北側のピークに別郭(べっかく)のような曲輪(くるわ)がある。とりあえず出曲輪としておいた。頂部の平場の北側を、半月形に三段の小さなテラスが囲み、さらに北側には広い削平地が造成されている。

写真9 本曲輪北辺の東側 矢印下が曲輪(テラス)の縁辺部

写真10 本曲輪北辺の東側~中央

 

写真11 本曲輪北辺中央

 

写真12 本曲輪北辺西側


 

 

写真13 山頂北西隅斜面にある御金蔵岩

 

写真14 上から見た御金蔵岩

 

写真15 本曲輪北辺の切岸

 

写真16 頂部の地形

 

写真17 三角点の表示 実際の山頂はこの北側で、ここよりも3mほど高い

 

写真18 東側のテラス(堀跡)

 

写真19 本曲輪東縁辺部の切岸

写真20 南から見た出曲輪

 

写真21 北側から見た出曲輪 頂上から中腹が三段に造成され、一番下には広い平場がある

   第3図 前九年・延久・後三年合戦と阿部館山盛岡市遺跡の学び館2019に加筆)

4 阿部館山の特徴

 調査結果から、阿部館山の要点をまとめると、以下のようになる。

a 岩手郡と閉伊の分水嶺に位置し、岩手県内の城館跡では最も高い場所に立地してい

 る。

b 中心部は、自然地形に多くを依存したプランで、単郭多重周壕形式の古式の構造で

 あり、少なくとも中世後期まで降るものではない。概ね平安時代中期の11世紀後葉か

 ら14世紀ぐらいまでの間の、いずれかの時期と考えられる。

c ひじょうに大規模な城館で、周囲の段築(テラス)など含めると、南北1200m、東

 西1600mに及び、立地と規模、全体の土木工事量から考えて、構築主体は一地方の豪

 族層ではなく、国家的要請に応じて築かれた城館であったと考えられる。

 

5 阿部館山の年代と背景

 発掘調査は全く行われていないが、城館の遺構を他の類例と比較検討することにより、ある程度の絞り込みは可能である。先述のbのとおり、自然地形を最大限活用し、周壕を廻らせた城館は平安時代から鎌倉、南北朝期ぐらいの事例が多く、阿部館山の地形と遺構のありかたは、11世紀清原氏の大鳥井山遺跡(秋田県横手市)の小吉山、台処館の様相と酷似している。自然のゆるやかな平坦部を活用して、斜面部に段築(テラス)や空堀を二重ないし三重に周回させている。単郭多重周壕とでもいうべき構造である。

 東北地方北部の平安時代防御性集落(囲郭集落・環壕集落)は、10世紀中ごろから12世紀のある段階まで構築されている。集落の一部、または集落の大半部分を堀で囲み、時代が新しくなると、多重周壕のものや、複数の曲輪を連ねる複郭構成の強固な構えの集落が出現する。

 11世紀、奥六郡の安倍氏陸奥鎮守府胆沢城の在庁官人(役人)の筆頭格となり、奥六郡の各地に一族を配置。実質的に奥六郡を領有するに至る。

 安倍氏の本拠地鳥海柵岩手県金ケ崎町西根)では、沢で開析された段丘地形を活用して、独立した曲輪や、方形に区画した居館、一族の屋敷地、四面廂の官衙建物が配されている。

 南端の二宮後(にのみやうしろ)地区は自然地形の崖と沢による独立曲輪で、堀は伴わない。ここから沢を隔てた鳥海地区は西方に長大な直線の堀を掘って区画し、内部に兵舎らしい建物を配している。さらに沢を隔てた原添下(はらそいした)の台地は南東部をL字形の空堀で方形区画して、約80m四方の居館を設けている。さらに北の縦街道地区は、堀は構えられていないが、高床の掘立柱建物で、四面に廂を持ち、侍廊を伴う格式高い建物跡が確認されている。

 鳥海柵の堀は、鳥海地区の堀も、原添下の堀も一条の単壕であり、清原氏の大鳥井山などの多重周壕とくらべれば、あまり重防備とは言えない構造である。当主の居館(原添下)と人馬の駐屯域(鳥海)、台地先端の要害として曲輪(二宮後)は存在するけれども、沢で隔てられた分散的な構成をとっている。そして、最も格式高い四面廂の大形てものは、堀などの防備のない、郭外の広い平地に存在している。床束のある高床の建物で、賓客をもてなしたり、政治的意味合いの強い宴が開かれた建物だろう。

 一方、清原氏の大鳥井山遺跡は、小吉山、大鳥井山、台処館の三つの丘陵にまたがっている。

 小吉山は内部を二郭に区分して、大形の堀二条が丘陵の裾を囲む。南東部では堀が三重になって分岐しており、南隣の大鳥井山と一体化している。小吉山は北側の高い曲輪が主郭(しゅかく)と考えられ、略方形に堀が囲む。北側には堀の折れ邪(おれひずみ)があって、北からの虎口が想定され、これに横矢を掛ける工夫がみられる。居館と考えられている。南側には掘立柱建物、竪穴建物からなる屋敷が複数あり、堀の内側には柵、逆茂木、櫓、門が構えられている。

 大鳥井山は小吉山や台処館よりも狭長な丘陵で、横手川に臨む山城のような景観である。頂部平場には掘立柱四面廂建物がある。頂部平場は小さな曲輪から大きなプランへと拡張されているが、東尾根には堀切が数条あり、周囲の中腹にも二条から三条の堀が構えられる。大鳥井山遺跡では、最も厳重な構えを持つ。

 羽州街道を隔てた東側の台所館は、頂部平場が広く、内部に居館の存在が推定できるが、詳細把握には至っていない。周囲には段築が周回し、恐らく二条から三条の堀が周回しているものと考えられる。台処(台所)は財政を意味する語句でもあり、内部には官衙的な居館が存在するのかもしれない。南側の鳳中学校も郭内とすれば、地形的に、複郭であると考えられる。

 安倍氏鳥海柵清原氏の大鳥井山遺跡とを比較した場合、鳥海柵が一条の堀で区画されているのに対し、大鳥井山遺跡は各丘陵が多重壕で囲まれているうえに、小吉山と大鳥井山とが堀で一体化されるなど、各曲輪の連携が見られ、防御機能が格段に充実していることが分かる。

 これは前九年合戦における戦闘経験が、清原氏の城館構築に大きく反映された結果といえよう。つまり、城郭史的に考察するならば、安倍氏の段階は城館の萌芽期であり、前九年合戦後に、清原氏が城館の構成を充実させたことにより、大形で堅固な大鳥井山遺跡が出来、t後の中世城館にも匹敵するような城館構造が確立されたと評価できよう。言い換えれば、中世城館の形態は、前九年合戦後、清原氏の段階で確立されたともいえるのではないか。

 阿部館山は伝承の安倍貞任の時代というよりも、前九年合戦後の清原氏の時代に構築された可能性が高いと考えられる。安倍貞任伝承があるのは、岩手県内の他の安倍館同様、明確な構築主体の伝承が伝わらない古い時期の城館が、安倍氏伝承に結びつけられたのだと考えたい。

 

 6 延久合戦と阿部館山

 前九年合戦終結の8年後の延久二年(1070)、後三条天皇の征夷完遂の政策をうけて、陸奥源頼俊が、清原貞衡(真衡?)を大将軍として征討軍を編成。奥六郡東方から北方にかけての閉伊七村、衣曾別嶋(宇曾利嶋=下北半島)の荒夷を征討した。いわゆる延久合戦(延久蝦夷合戦)である。征討軍の主力は、仙北三郡と奥六郡を伝領した清原氏の軍事力であるが、実際の戦果については明らかではない。合戦後、清原貞衡は陸奥鎮守府将軍に叙任されており、一定程度の戦果はあったのだろう。しかし陸奥源頼俊は、征討中に陸奥国府の印と正倉の鍵が奪われる事件が発生。急遽、国府へ帰還しなくてはならなかった。

 これは下野守源義家の策謀により、配下の藤原基通に印と鍵を奪わせて、基通が印と鍵を持って義家のもとに出頭させたうえで、朝廷に経緯を報告したのであった。朝廷では同年8月1日付けで源頼俊に召喚し、都に上るよう伝えたが、頼俊は陸奥に居座り、同年12月26日付けで、先の征討で、閉伊七村、衣曾別嶋の荒夷を討ち、多大な戦果を挙げたと弁明した。しかし、朝廷は頼俊に対して行賞はなく、陸奥守を解任し、陸奥で謹慎を命じた。

 つまり、事件の背景には、大和源氏源頼俊と、河内源氏源義家の、中央政界における地位を廻って暗闘があり、源頼俊と清原貞衡は、北方海域から太平洋岸の海運の主導権を得るべく征討にあたったが、これを阻止しようとした源義家の謀略により、源頼俊は失脚させられたのである。

 この時の征討対象域は、奥六郡北部の岩手郡の東から北方にあたる。征討軍主力である清原貞衡が、仙北三郡、奥六郡一円から軍勢を動員して、閉伊七村進出の前線基地として構えた、大規模城館が立地するには、岩手郡、閉伊地方双方を眺望し、双方から視認できる山城として、阿部館山はもっともふさわしい場所に位置していると思う。

 先に示した11世紀後葉から14世紀代までのうち、この場所において、この規模、構造の城館が築かれる可能性が最も高いのは、伝承の安倍貞任の時よりも新しく、閉伊地方から下北半島宇曽利に至る広域を征討対象とした、延久合戦の行われた1070年前後であろう。

 このように、安倍館山は極めて重要な城館跡であり、周囲の斜面部などの縄張調査がまだ完了していないこともある。今後も注意しながら、遺跡の解明を進めていきたい。

 

◇引用文献

盛岡市遺跡の学び館2019年10月『安倍氏最後の拠点 厨川』

室野秀文2013年3月「阿部館山」『岩手考古学第24号』岩手考古学会

遠野市松崎町松崎 真立館(まったつだて)

12月25日(土)遠野市松崎町の真立館を調査した。遠野市博物館学芸員の前川さおり氏の案内で、平泉町役場の八重樫忠郎氏と室野秀文の3人で行った。

調査のきっかけは前川氏のFacebookのフィールドノート(2021年9月17日)の頂部平場の写真であった。平坦地になってはいても、造成は粗野で、縁辺部が丸くなっており、中世後期の城館の平場とは異なるように思えたからだった。前川氏と連絡をとり、館跡の状況を確認すると、堀跡らしいテラスが周回しているということであったので、中世でも比較的古い時代の、単郭周壕型の城館と思われた。そこで後日現地調査することになり、本日の調査実施となった。現地は昨夜来の降雪により、3㎝前後の積雪があった。

松崎町松崎では、本年度、遠野市教育委員会の発掘調査により、宮代Ⅳ遺跡で12世紀後半の経塚が発見されており、平泉藤原氏の時代、この地も平泉文化圏であったことが証明されている(遠野市教育委員会2021)。

今回の真立館は、その北東300mほどのところにある字廻立にあり、標高326m、比高50mの山上にある。南側低地には、猿ヶ石川の旧河道と思われる松崎沼が存在したといわれているところで、沼に面した南斜面は非常に急峻であるが、山頂から北西、南西、南東、北東には尾根が伸びている。猿ヶ石川の対岸段丘上には、平安時代の9・10世紀の官衙的遺跡とされる高瀬Ⅱ遺跡が立地している。

 

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猿ヶ石川対岸から見た真立館と宮代Ⅳ遺跡(経塚)

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遺跡位置図(岩手県教育委員会2016に加筆)

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南から見た真立館 手前の低地が松崎沼の跡

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真立館縄張図(野帳

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頂部平場 自然地形を残した粗野な造成

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東側空堀 堀は埋没が進行し、曲輪縁辺部は丸くなっている。

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北西部空堀コーナー部分

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北東部空堀コーナー部分

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東隣の尾根にある「羽山○見」の石仏

頂部曲輪の規模は南北38m、東西は18m~22mで、全体が瓢箪に近い楕円形である。曲輪には中軸に沿って3つの竪穴建物らしい窪みがある。曲輪内は戦時中の松根油採取のため掘り起こされたらしい穴もあるが、全体に造成が粗野な感じで、自然地形がそのまま活用されているように見受けられる。堀に近い縁辺部は、幅2m内外の犬走状に整形されている。堀は幅8mほどであるが、急斜面に面した南側は幅3mほどのテラスになっている。堀は山側を切り落とし、斜面側へ土塁を盛って、堀を形成している。古代末期の防御性集落や、中世の古い時期の城館によくみられる特徴である。西側中央付近と北西側に土橋が残り、当時からの通路であったと思われる。

曲輪の南西側には尾根が下っているが、ここは数か所で平坦地になり、尾根先端部は、粗野であるも広く造成されている。尾根には6か所ほどの竪穴建物の窪みが見られる。同様の竪穴は南東尾根にも2か所見られる。北西尾根は確認していない。

真立館は単郭周壕型の城館で、曲輪の粗野な造成状況や、土塁を外側に盛る工法から見て、中世前半の鎌倉南北朝期か、やや遡る可能性も考えられる。遺構の内容は、室町・戦国期とは考えにくい。

南西側の宮代Ⅳ遺跡経塚は12世紀後半のものであり、宮代Ⅳ遺跡北東側には松崎観音(南北朝期?)がある。こうした宗教施設との関連も多いに考えられ、遠野における古い時期の城館である可能性が高い城館跡である。

なお、前川氏によれば、ここの字名は「廻立」とのことであり、堀やテラスが周回する構造の廻館(まわりだて・まわったち)が真立に転化した可能性がある。

 

 

 

 








 

浄法寺城ー令和3年度第2回二戸市民歴史講座『浄法寺城を歩く』ー 12月5日(日曜日) (現地講座要旨)

 中世の糠部(ぬかのぶ)は、一国に相当するほどの広大な領域でした。郡域は一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸の九つの「戸(へ)」と、南・北・東・西の「門(かど)」の行政区に分かれていました(九戸四門の制)。鎌倉時代、糠部は北条得宗領であり、後に糠部に定着し一族を拡げた南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷(山梨県南巨摩郡南部町)を本領としていました。その一族が、鎌倉時代末期までに、北条氏配下の給主として、糠部の何れかの地に赴任していたと考えられています(新編八戸市史通史編1)。

 浄法寺は糠部の南西部、西門(にしのかど)にあたり、外ヶ浜に向かう奥大道(おくだいどう・おくのおおみち)にも接しています。鎌倉時代初期、武蔵の畠山重忠の子孫が鎌倉を脱出し、日光山を経て、天台寺付近に定着し、浄法寺氏を名乗ったと伝えられています(諸説あります)。二戸市石切所の諏訪前遺跡は、馬淵川沿いの段丘上に営まれた遺跡で、方形の堀を廻らせた居館跡が確認されています。出土陶磁器から、鎌倉時代中頃から後半のもので、北条氏代官の居館と考えられています。浄法寺氏もまた、北条氏配下の給主だった可能性もありますが、鎌倉時代の動向を示す史料がなく、確実なことはわかりません。また、このころの浄法寺氏の居館も、今のところ不明です。

 浄法寺は、八戸~二戸~鹿角を結ぶ八戸街道(鹿角街道)の要衝です。山麓から東南方向に張り出した、段丘を活用しており、先端は安比川に至ります。深い堀で区画された、八幡館、大館、新城館が並び、この西と北にも大きな曲輪が造られています。当時の名称は不明ですが、現在便宜上、西館と北館と呼ばれています。北館が広大な範囲ですが、内部を区画する空堀も確認されていますので、浄法寺を含む安比川流域は、中世には糠部の西門と呼ばれた地域4つぐらいの区画に分かれていた可能性があります。八戸街道は八幡館と、大館・西館との間の堀底を通過しており、浄法寺城は安比川流域支配の拠点城館であり、交通・流通を扼していたことがわかります。

 

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 八幡館北東の神明社のある一郭①は、大手から八幡館に登る坂の途中にあたります。地形をよく見ると、八幡館から独立した馬出であることがわかります。境内東側の安比川に面した場所には、高い土塁が築かれていて、神社社殿の南側へと回り込んでいます。神社参道側には土塁は残っていませんが、境内整備に伴って削平されたとみられ、元は馬出の表側には、半円形に土塁が巡らされていたことでしょう。この外側は安比川に面した崖になっており、堀は省略されていますが、丸馬出と呼んでも差し支えない構えです。土塁の高い個所は、安比川沿いの通行が遮断されていた箇所の真上であり、見張りの櫓が構えられていたと推定されます。馬出は城兵の出撃を援護しつつ、攻めての兵力を分散させて、城の大手などを守る施設です。このすぐ上は八幡館の高地が控えているため、馬出へ侵入を許したとしても、高地から反撃して奪い返しやすい造りになっています。浄法寺城大手口の防御の要になっております。

 八幡館に登る道は、馬出から旧坂を登ったあとも、暫く城主館②にむけて坂を登りますが、右手の高地からの攻撃にさらされているため、寄せ手からは反撃しにくい構造になっています。この坂を登り切ったあたりは、安定した平坦地になっております。この北側の発掘調査では、多数の掘立柱建物跡が重複してみつかっております。代表的なもの二つを資料P に挙げておきましたが、一つは総柱の高床張の会所と考えられるもの、もう一つは、L字形の曲屋風建物で、八戸根城には、少し大きな曲屋風の主殿が復元されておりますので、参考にしてください。館の表向きに配置される内容の建物であり、これより奥(南西側)の平場に城主の常御殿が存在したと考えられます。

 八幡館南東には、城の裏手にあたる、搦手の備えが見られます。八幡館南東の一角は、小さな低い土塁に囲まれていますが、城主居館との間が低みになっており、古い時代には堀切で独立していた可能性があります。この土塁から下には、中腹が階段状に造成されていて、南東からの上り道が曲折して登り、土塁囲みの④の北側に登ります。その途中、③の處が枡形になっており、脇に土塁が残されています。南東側の安比川近くから、この八幡館を見上げると、雛壇造成の地形が、守りの固い要塞として築かれているのが実感できます。

 八幡館と大館、八幡館と西館の間は、深く刻まれた大きな空堀になっており、堀底は浄法寺街道(鹿角街道)が通じています。堀底は緩やかなS字に曲がっていて、見通しが利きにくくなっています。西館と八幡館の最高部との間は、堀の両側斜面にの縦土塁が構えられていて、喰い違い⑤や枡形⑥が構成されています。これは当時街道の通行を監視しながら、ある時には通行を制限した痕跡と考えられます。すなわち。浄法寺城の関所としての一面を物語る遺構です。

 八幡館北側の大館は、南側の西館と、八幡館との間に二重の堀が構えられ、堀の間には⑦、⑧、⑨の小さな曲輪が設けられています。また、北側新城館の南東部大館よりの箇所⑩は一段高くなっていて、この部分は堀で独立している可能性がありますが、そうしますと、大館の三方は、それぞれ二重の空堀が囲むことになり、城内では八幡館に次いで、守りの固い曲輪ということができます。八幡館ほどの密度ではないけれども、重複する掘立柱建物には大形の曲屋風建物もあり、ある時期に本丸になったことがあるのかもしれません。出土陶磁器のなかに鎌倉時代後期ごろの中国青磁碗破片がありますが、大館のうちに、この時代の建物が存在するのかもしれません。今後の発掘調査が待たれます。

 本日は時間の関係で割愛しますが、西館の中からは、工房と考えられる竪穴建物跡が複数見つかっています。中心に大形掘立柱建物も存在し、漆工芸や鉄器生産などの職能民と、これらをまとめ、管理する武士の存在が推定できます。新城館や北館は、遺構の密度が薄くなりますが、家臣屋敷とみられる建物群、馬の墓、内部を区画する空堀が見つかっております。特に北館は広大であり、有事の際には、地域の庶民層の避難場所にもなったことでしょう。

 浄法寺城は糠部の拠点城館の姿をもっともよく伝える遺跡です。本日、城跡全体を廻ることは、時間の関係でかないませんでしたが、資料中の地形図を片手に、皆さんご自身で、広大な城跡を体感してみてください。またいつか、機会がありましたらば、皆さんとともに、二戸・浄法寺の城館跡を歩いてみたいと思います。

※ 掲載資料は二戸市教育委員会提供資料を中心に構成しております。利用にあたっては、著作権法に留意し、無断転載は御遠慮ください。

 

謎の山城 滴石大館

岩手県盛岡市の西方、秋田県境に近い、岩手郡雫石町山津田にある大規模な山城。雫石川の北岸、JR秋田新幹線と国道46号線のすぐ上にある標高354m、比高120mの山上にある。JR田沢湖線赤渕駅(雫石駅から西へ二駅目)の北東に見える山で、登る際には、赤渕駅東方の山津田集落に入り、大館の南西側尾根から登るルートが、比較的登りやすい。

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                大館位置図  (国土地理院Webに加筆)

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雫石盆地から見た大館

 

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                 大館(南西から)


 文献上での滴石(雫石)の初見は、南北朝時代南朝:興国元年・北朝:暦応3年(1340)12月20日の、南部政長あて北畠顕信御教書(遠野南部家文書)である。内容は「岩手郡に対峙して西根に要害(山城)を構えたことを祝し、明春には和賀・滴石(戸沢氏)と一手となり、斯波氏(斯波郡の足利氏)を打ち破り、国府多賀城)に攻め上らん。河村六郎(斯波郡東部の武士)が御方(味方)となるならば、相応の行賞の用意があることを必ず伝えておくように」と、南部政長(前遠江守)に指示した文書である。この西根要害については、岩手郡雫石町の大館とする説と、岩手郡の北西部旧西根町、現在の八幡平市西根の平舘(たいらだて)とする説がある。雫石町ならば盆地西部の(旧西山村)山津田の大館とされる(高橋輿右衛門2013)後に北畠顕信南朝:正平元年(1346)から正平6年(1351)の約5年間滴石に逗留し、出羽へと移っている。岩手郡北西部西根の平舘は、南部政長の後裔、根城南部氏(八戸氏)の所領の一つ(遠野南部家文書)であり、平舘城背後の館山には、年代の古そうな山城跡がある。どちらも根拠のある説であり、にわかには決めがたい。史料の読み方も検討されなくてはならない。

 大館の山頂には、東西70m、南北30mの不正長方形の主郭(しゅかく)、その北東に30m×20mの副郭(三角点がある)があり、その三方を起伏のある二の曲輪(くるわ)が囲む。主郭内部には大小の竪穴建物らしい窪みがある。大きな竪穴は西側に低い土手を伴うが、竪穴は埋没して不明瞭である。二の曲輪の東端は、径50mほどの円い平場で東に突き出し、その下を比較的大きな空堀が廻る。東尾根には2方向に細尾根が伸びて、その基部を一重のやや小ぶりな空堀で断ち切られている。それぞれの尾根には小型の竪穴建物と思われる窪みがある。北方向に延びる尾根には、不正形な曲輪と、先端に小さな曲輪が配置され、空堀が周回している。空堀は山側を切り落とし、外側へ土塁を盛ったもので、埋没が進行して浅くなり、平場のようになっているところもある。東側には一段低く、帯状の腰曲輪がめぐる。二の曲輪の西側は土橋のある平虎口が開いており、西側は70m×40mの起伏のある曲輪で、4か所ほど竪穴状の窪みがある。その西側は一条の堀・土塁を隔て、竪穴状窪みが大小7基ほど存在する、平場の集合体がある。その先端は二重堀切になり、西端は大ぶりの竪穴状窪みがあって、粗野な造成で4段の平場がある。

 この大館への本来のルートは、山津田集落から主郭南下の斜面を登り、主郭・副郭東側の鞍部に登るのが大手道と推定される。

 大館から深い沢を隔てた東側の台地には、弧状の大きな空堀で区画された別郭(べっかく)がある。堀の内側は二段になっており、堀の改修(掘り直し)が推定される。曲輪内には堀に沿って弧状の土塁があり、2か所に虎口がある。東側の土塁内面には、一部浅い空堀状の低みがある。曲輪の内部は自然の起伏が残り、2か所にピークがある。東斜面に4段ほど緩やかな段築が残り、縦堀状のところから湧水が認められる。

 

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滴石大館縄張図

  ※ 図中の薄緑=空堀・堀切、オレンジ色=土塁、薄紫=竪穴状窪み

       水色=井戸・湧水

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                北尾根の小曲輪

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                  東側空堀

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                 東側空堀

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               西尾根の二重堀切

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                西尾根の平場

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               西尾根の竪穴状窪み

 大館は大規模な山城である。東側の空堀は腰曲輪と併せて二段に構えられ、沢の東に別郭を伴うなど、東側に防御の重点が置かれた構えである。全体に平場や曲輪の造成が粗野であり、堀も埋没が進んでいることからも、戦国時代後半までは降らない時期の山城ではないかと思われる。雫石盆地の要の城館は、雫石駅近くの雫石城と、その南東にある滴石古館である。どちらも連郭式の大形の城館であるが、滴石古館は戸沢氏の滴石城。雫石城は、天文年間(1532~1554)に戸沢氏を降してこの地に進出した斯波氏(斯波御所)一族、雫石斯波氏の居城である。斯波氏は天正14年(1586)南部信直の侵攻によって雫石城を失い、同16年7月末には本城高水寺城(紫波町)も追われて滅亡する。その後雫石城は、南部信直直轄城として天正20年(文禄元:1592)まで使用された後破却。以後は代官所支配となっている。この大館は、恐らくは戸沢氏(滴石氏)の構築した山城と推定され、室町から戦国時代初期あたりまでの滴石古館(滴石城)の詰城であった可能性が高い。斯波氏などの外圧があった際には、大館へ退き、抵抗することを想定していたと思われる。当時、戸沢氏は奥羽山脈を越えた出羽国仙北郡にも所領があり、門屋城または角館城(ともに秋田県仙北市)を本城としていた。滴石が危急の場合には、出羽の仙北に退去する選択肢は当然あったと思われ、中間の貝吹岳は、連絡用の狼煙台であろう。このことは、南北朝期の北畠顕信の動きとも重なっていることが注意される。大館の遺構の様相から、その創築が、南北朝期にまで遡る可能性も否定はできない。ただし、地表面観察のみでは詳細な年代は不明確と言わねばならず、実際の築城、廃城の年代、城の変遷については、考古学的発掘調査の実施を待たねばならないのである。

 

◆ 引用文献・参考文献

高橋與右衛門 2013 『雫石町史通史編 甦る雫石郷の歴史』雫石町教育委員会

室野秀文 2017 「大館」『東北の名城を歩く北東北』吉川弘文館

室野秀文 2021 「平館城」『続東北の名城を歩く北東北』吉川弘文館

 

 

 

 

 

貝吹岳ー戸沢氏狼煙台ー

 岩手県秋田県の境、奥羽山脈の貝吹岳(かいぶきだけ)は、国見峠の南にある、標高992mの山である。ここは、岩手県岩手郡雫石町から秋田県仙北市に抜ける、国道46号線仙岩トンネル真上の仙岩峠から、南へ700mほどの位置にある。現在山頂には、国土交通省の通信用反射板が設置されている。

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位置図(国土地理院地図)

 戦国時代の天文9年(1540)、滴石の領主戸沢氏が、出羽仙北へ退去する際、この山頂から滴石へ向けて法螺貝を吹鳴したという伝承がある。当時戸沢氏は、出羽仙北の門屋城または角館城(いずれも秋田県仙北市)に本拠があり、岩手郡滴石も領有していた。貝吹岳は、滴石と仙北の連絡のため設けられた狼煙台的な砦と考えられる。当時の通信・伝達方法は、狼煙や法螺貝・鐘で知らせたのち、早馬で詳細を伝達していたので、国内のいたるところに狼煙山とか、鐘撞堂山、貝吹山などの伝承がある。滴石の貝吹岳も、まさに戸沢氏の連絡用の狼煙台や砦が置かれた場所であったのだろう。

 山頂はほぼ自然地形であるが、三角点のあたりは幾分平坦。ほかに北側から西側に犬走状のテラスが巻いていて、簡易な砦のような施設が存在したように見受けられる。このテラスは南側や東側にも伸びている可能性があるが、丈の高い熊笹が密生しているため、確認することは難しい。

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貝吹岳(北から)
山頂下の色の濃い笹と、淡い笹との境界付近がテラスの位置、東側(左側)は急傾斜、傾斜の緩やかな北と西側にテラスを配したものか?

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貝吹岳狼煙台(方眼の1目盛りは10m)

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山頂(南から)

 盛岡南部氏の伝える歴史では、天文9年(1540)南部晴政岩手郡の国衆を従え、一人応じなかった滴石戸沢氏を、南部氏一族の石川高信(南部信直の実父)が攻撃。滴石城を火攻めで陥落させ、戸沢氏は出羽仙北に逃れたとする(岩手県史第3巻・雫石町史ほか)。
 天文年間(1532~1554)の岩手郡は、北からは糠部の南部氏や九戸氏の進出があり、南からは斯波郡高水寺城(紫波町)の斯波氏も、積極的に岩手郡へ侵攻した時期である。郡北西部には、一戸南部氏が早い時期から西根盆地(八幡平市)へ一族を置き、天文15年(1546)石川高信は、一方井(いっかたい:岩手町)の領主一方井刑部の娘との間に亀九郎(後の南部信直)が生まれ、岩手郡に勢力を拡大していた。

 天文14年(1545)、斯波御所(高水寺城)の斯波経詮は、岩手郡に深く進攻した。岩手郡の国衆は三戸南部氏から援兵を得て、斯波勢を退けたとする(奥南落穂集)が、これは現在の岩手郡北部から北西部のことだろう。現在の盛岡市雫石町のほとんどは、斯波氏の制圧下にあったからである。

 この天文14年の前か後かは明確ではないが、斯波経詮は、弟の詮貞を雫石に、次の弟詮義を猪去(いさり:盛岡市猪去)に配置している。これ以後斯波氏は、高水寺の志和御所・雫石御所・猪去御所の三御所体制で領地経営にあたり、後には稗貫郡にも侵攻し、一族を稗貫氏当主に据え、遠野保の阿曽沼氏、和賀郡の和賀氏も半ば従属させて同盟関係を結び、北上川の上・中流域に広域勢力を形成した。室町幕府足利氏や奥州探題大崎氏凋落の後も、斯波氏は勢力を拡大した。

 従来は、三戸南部晴政が、石川高信を主将に滴石戸沢氏を出羽に敗走させたが、後に斯波氏に滴石を奪われて、斯波氏の志和・雫石・猪去の三御所体制になったと考えられてきた(岩手県史第3巻、雫石町史、甦る雫石郷の歴史)。ただ、天文9年の滴石攻略が本当に三戸南部氏によるものであったのかどうかは、時期が早すぎるのではとして疑問視されている(菅野文夫2003)。当時滴石の一部であった、盛岡市繋の湯坂峠には、戸沢氏が斯波氏の侵攻に備えて関門を置いたという伝承(岩手郡誌)があり、同峠の要所には、堀切や土塁が構築されている。また、奥南落穂集には、滴石戸沢氏は斯波家により領地を掠取された旨の記述がある。天文9年の南部氏の滴石侵攻は、後の天正14年(1586)南部信直の雫石御所攻略の話を、父親の石川高信の実績を喧伝するために遡及させた説話であるのかもしれない。

 斯波氏の雫石御所と猪去御所の設置、その後の斯波氏勢力の隆盛を考えれば、天文9年の滴石攻撃は、三戸南部氏によるものというよりは、斯波御所の岩手郡侵攻の一環で実施されたと考える方が、自然ではないだろうか。その結果、戸沢氏は敗れ、出羽仙北へ退去したと考えたいところである。

■ 引用・参考文献

岩手県教育会岩手郡部会 1941 『岩手郡誌』

岩手県 1961 『岩手県史』第3巻

雫石町 1979 『雫石町史』

菅野文夫 2003 「大釜館遺跡と中世の岩手郡」『大釜館遺跡発掘調査報告書』滝沢村

        埋蔵文化財センター 

高橋輿右衛門 2013 『甦る雫石郷の歴史』雫石町教育委員会

 

 

すあま棒

昔、こどものころ、信州で食べた餅菓子の「すあま」は、紅白の2種類で売られていて、

地域の人々に好まれたお菓子だった。

当時、私はこのお菓子が大好きで、知人や親せきの人が「すあま」を手土産に家に来ると、本当にうれしかったものだ。

その「すあま」は、果物のイチジクを平たく伸ばしたような形で、やわらかく、しつこくない上品な甘さが、何とも言えずおいしい、庶民の味だった。

 

あれから半世紀ほど経過したが、信州には今もあるのだろうか・・・・?

 

先日、たまたま買い物で立ち寄ったスーパーマーケットで、「すあま棒」を見つけた。

こどものころ食べたすあまとは形が異なり、棒状の形で芯が白く、外側がピンク色になっている。

なつかしくなって、家族の分を買って帰宅し、

お茶請けに食べてみた。

昔なつかしい、やはらかな食感と、上品な甘味が口の中に拡がった。

家族の評判もすこぶる良かった。

 

パッケージを見ると、岩手県南部の一関市花泉の「すがわら」というお店で作っているものだった。

 

一関市や磐井地方は、餅が食文化である。

現在でも美味しい餅料理が数多く伝承されていることを思うと、

このすあま棒はいかにも、県南の一関らしい餅菓子だと思った。

 

昔ながらの御菓子には、ほんとうによいものがあり、

それを、今でもたべられる幸せを感じた日だった。

 

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すあま棒