城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

湯の高館(花巻市台)

 岩手県花巻市台にある山城、東方に存在した金谷館(湯の舘:館主は高橋氏)の詰城である。場所は花巻温泉の西側、国立花巻温泉病院の南裏手の山上で、標高は240m、比高は90mの急峻な尾根に築かれている。南側は尾根の鞍部になっており、ここに三条の堀切が設けられ、城を独立させている。

図1 高館位置図

 

 南部叢書の聞老遺事に収録される「稗貫状」及び「和賀古伝記」、「吾妻むかし物語」により、合戦の経過を見る。

 永享七年(1435)の五月、和賀宗家と庶子の須々孫氏の間に、確執があり、南部遠州(南部遠江長安)は、不来方城主福士伊勢守を派遣し、両者を調停した。しかしこの結果に須々孫氏は不満を募らせ、和賀郡黒沢尻氏が同調し、これに隣の稗貫羽州(稗貫出羽守)が合流。11月、和賀氏の飯土肥城(北上市飯豊)を攻撃し陥落させた。これによって兵乱は和賀郡・稗貫郡一円に拡大した。

 

写真1 飯土肥城(北上市飯豊)

 この城を稗貫羽州らが攻撃したことで大乱になった

 

 奥州探題大崎持詮は、兵乱を鎮圧するため、斯波西御所を大将軍とする軍を編成し、南部遠州(南部遠江長安)ほか、北奥各地の武士が動員されたが、寒気と風雪激しくなり、鎮圧軍は岩手郡不来方城(盛岡市内丸)に待機。

 永享8年(1436)2月10日旗揚げし、3月24日、寺林城花巻市中寺林)を攻めたのち、3月22日、稗貫十八ヶ沢城(さかりがさわじょう:花巻市松園付近)を囲む。厳重な防御を施した城郭をめぐり、連日激しい攻防戦が行われ、28日には一戸南部實俊が強弓を引いて活躍した。

 5月27日、近くの川中(北上川?)で激戦。

 5月28日、台の湯ノ楯(金矢館:花巻市金矢)を攻撃に向かう。城主の高橋氏は防戦かなわず、詰城の高館に籠城し抵抗した。南部長安は高館を包囲して水の手を抑えたところ、やがて城内は枯渇し、開城した。

 同年夏の盛り、奥州探題大崎持詮が出陣。葛西氏からは薄衣美濃が鳥谷崎(花巻市花城町)に布陣、江刺氏一族は和賀氏の二子城を警護した。

 稗貫出羽守は瑞興寺住職を仲立ちに降伏し、半年以上にわたる戦乱は収まった。

 

第2図 湯の高館縄張図

 

写真2 東から見た湯の高館   

 20年ほど前、積雪期の撮影で、山頂の左側(南側)尾根に3か所の堀切が見える 

 

 この城は山頂に本曲輪をおいて、その周囲に数段の腰曲輪や段築を配置したもので、比較的単純な、単郭周壕型の構成に近い。第2図のa,b,cの平場が本曲輪に該当し、周囲をd,e,fの、三つの細長い平場が取り巻いている。この三つの細長い平場はいわゆる腰曲輪というもので、空堀が埋没した姿であるのかもしれない。fの北には、さらに三段の小さな平場が段築される。第2図を見ていただくと、aの南東隅が長方形に小高くなっており、櫓が想定される。また、aの南西隅がコの字形に削り込まれているのは、ここに見張り小屋が存在した可能性がある。ここから土塁が伸びており、虎口になっていたと考えられる。これが山城の全てである。

 湯の高館は15世紀前半の山城の形態をそのまま留めているらしく、小城ながら、歴史的に貴重な山城遺構と考えられる。また、今回は詳述しないが、飯土肥城(飯豊城:北上市飯豊)も、高館と同様に、合戦当時の遺構を伝える山城として貴重である。

 なお、稗貫出羽守が籠城した十八ヶ沢城については、鳥谷崎城(花巻城)とする説もあるけれども、地形や近世の地誌類の記述から、やや北西よりの花巻市下幅から桜台一丁目にかけての段丘上である可能性がある。これについては、別途投稿したい。

 

〇 引用・参考文献

遠藤巌1997「いわゆる稗貫状について」第二回大崎氏シンポジウム報告集