城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

廻館考

 私のフィールドに、時折、マタテ・マワッタチ・マッタヅなどの地名がある。漢字にすれば、真館・間館・廻館・真立などと標記される。多くの場合、その場所か近傍に、山城が存在する。

 盛岡市門(カド)と東安庭との境にある蝶ケ森(経ケ森)には、空堀が二重、三重に廻る蝶ケ森館があり、その南斜面と山麓の字名は真立(マダテ)である。東側の鑪山(タタラヤマ)から伸びた尾根の先端が盛り上がったところに構築され、山頂は数段に分かれた曲輪になっており、西側の北上川を見下ろすところには、さらに多くのテラスが築かれて、これらを取り巻くように、空堀が周回しているのである。現在でもこの地形はよく残り、ノロシ山とも呼ばれている。室町から戦国時代、在地土豪の吉田氏の城館と推定されるが、天正16年(1588)の夏、三戸(サンノヘ)の南部信直が、斯波詮直(シバアキナオ)を責める際に、この山に布陣している。信直は渡河して志和郡の陣ヶ岡へ陣をうつし、7月末ごろ、高水寺城を攻略して斯波氏を滅亡させた。門(カド)は河渡から来ており、北上川の渡渉地点を示す。南部信直が進軍した通り、交通を扼す目的で構えられたのが蝶ケ森館だったのである。

 もう一つ、岩手郡葛巻町小屋瀬に廻館(マワリダテ)というバス停がある。この南側に高い山があり、山頂に小屋瀬館がある。ここはまだ踏査していないが、日本城郭体系2に図が掲載されている。これによれば、山頂の平場をいく段ものテラスが周回する構造で、各平場に竪穴建物の窪みがあるという。さらに尾根を小さな堀切で区画している。館主は鈴木氏とされるが、詳しいことはわかっていない。

 盛岡市の蝶ケ森館と、葛巻町の小屋瀬館に共通するのは、どちらも規模の大きな城館ではなく、堀やテラスが周回する単郭構造の城館であることである。当時の人々は、空堀や、幅の狭いテラス状の平場が、中心部を廻って防御する館を見て、その形状から廻り館(マワリダテ)と呼んだのではないだろうか。真館(マダテ)もマワリダテ、マッタテ、マッタチから転化した地名らしい。

 この地方の城館には、他にも、丸子館、茶臼館、車館など、館の形状に起因する城館名が見られる。館の名称から、あれこれ考えてみるのも楽しい。