城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

比石館(北海道桧山郡上ノ国町石崎)

比石館位置図     国土地理院地図に加筆)


北から見た比石館      中央の灯台の岬が館跡

 いわゆる道南十二館の一つ、畠山重忠の末裔とされる厚谷将監重政が1440年ごろ渡道し築いた館とされる。康正三年(長禄元:1457)コシャマイン軍の攻撃により陥落。その後再興されたといわれる。上ノ国町教育委員会の発掘調査によれば、主郭内部からは16世紀代の陶磁器類が出土したが、15世紀半ばの遺物は確認されなかったという。調査結果からは戦国時代後期の城館という事になる。まだ、大半の部分が未調査であり、将来の調査で15世紀代の遺物が確認される可能性も捨てきれない。

 この館は石崎川南岸の館野台地から、北へ延びた岬を活用しており、東側は石崎漁港となっている。南側は細い尾根で館野台地に続くが、三方は切り立った崖になっており、南側を幅12m、深さ4mほどの堀切で断ち切っている。ここには東側の漁港からの上り道が堀切に到達し、北へ曲がって郭内に入っている。当時の大手道であろう。堀切中央部は現在埋め立てられて石垣が積まれている。また、10mほど南にも、地形が東側から切れ込んで,尾根がくびれている箇所がある。ここも堀切が存在した可能性があるが、進入路の埋立により明確ではない。

  

比石館平面図Googleに加筆)

堀切の南から見た比石館    堀切は中央が埋め立てられて、進入路になっている。向かって右下の漁港からの道が一旦堀切に入り、曲折して郭内へ上る

郭内から見た堀切と虎口(手前) 埋め立てられた堀切の向こう側にも東(左)から切れ込んだ箇所があり、さらに一条の堀切が存在した可能性もあるが明確ではない。

 

 郭内には現在灯台と館神の祠が存在する。主郭は南北90m、東西は20mほどである。北側は細い尾根が低く突出するが、北端は絶壁になっている。内部は自然の岬の地形を活用したもので、自然のゆるやかな起伏があって、完全な平坦地にはなっていない。また、周囲に腰曲輪なども造成されていない。

 単郭構造のシンプルな構えであり、平時の屋敷は漁港南側の平坦地に存在したと推測されている。河口の湊を守ることを主目的とした城館であるが、南の松前大館(松前町)と、北の勝山館(上ノ国町)の間を中継する役割があったと考えられる。