上之国花沢館
北海道の渡島半島の日本海側、桧山郡上ノ国町字勝山にある山城跡(国指定史跡)。いわゆる道南十二館の一つで、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いでは、茂別館(北斗市茂辺地)と花沢館が残り、他の城館は、コシャマイン軍によって陥落したという(新羅之記録)。その後花沢館館主蠣崎季繁の客将武田信広の奮戦によってコシャマイン父子を七重浜(七飯町)で討ち取り、合戦が終息した。武田信広は蠣崎季繁の娘婿となり、蠣崎家を相続。15世紀の後葉、西方に勝山館(国指定史跡)を築城。子孫はやがて松前大館(国指定史跡)に進出し、松前氏の祖となった。
図1 関連城館位置図
図2 花沢館跡・勝山館跡周辺 (Googleマップに加筆)
写真1 北から見た花沢館 矢印の下が主郭
写真2 花沢館登り口 現在の登り口、かつては東側の洞状斜面を曲折して登った。現在もその道跡が断続的に残り、上の平場端部に切れ込んだ虎口がある
図3 花沢館縄張図 ※上ノ国町教育委員会と共同で現地調査し作成した図
背後の山から派生した尾根が隆起した箇所に主郭①をおいて、背後を堀切り、そこから空堀が東側、西側斜面部を斜めに下っている。前面の斜面部には段築や曲輪②を雛壇状に配しているが、②から五段登った三日月形の平場の斜面際に、幅1m余りの小さな空堀があり、これによって、山頂部の主郭と、それより下の雛壇状曲輪とを分けている。主郭はあまり大きくなく、詰の曲輪のようなものと考えられる。北側麓と主郭との比高は50mほど。②のあたりと北麓とは32mほどである。
大手口は現在の上り道とは別に、北斜面の洞の中を曲折して登る細い道で、登りきると内側に切れ込んだ、左折れの虎口がある。これが大手の城戸跡だろう。この大手道の東側の突出部には狭小な平場が配され、西側には③の平場が袖状に構えられ、登り道と大手虎口を、三方から弓矢の俯射で守る、強固な構えがみられる。
現状の②の平場は城内で最も広い平坦地であるが、発掘調査の結果、現状の法面は、後世に大幅に盛土・拡張されたことが判明しており、当時は一段下の平場のほうが広かったと考えられる。この北側一段下は、大手城戸の平場である。この最も広い平場には、館主居館が入っていた可能性がある。
花沢館の東西両側の小さな沢を隔てた尾根にも、④、⑤の平場群があり、東西両側の砦として機能した場所だろう。
写真3 主郭(詰の曲輪)
孤立した狭長な曲輪、草ではっきりしないが、中央に背骨のような起伏がある
写真4 主郭背後の堀切
写真5 背後の尾根からみた主郭 間の低みが堀切、手前の高まりは土塁
戦後間もないころ、食糧増産のため、この主郭が開墾されて畑となったとき、2000枚ほどの中国銭が採集され、中世擂鉢の破片も出土した。2004年と2005年には、上ノ国町教育委員会による発掘調査が実施されて、ここでも多くの出遺物があった。主郭奥の調査区は、主郭の背骨のような隆起を含めて発掘調査され、隆起と並行、あるいは直交するような小さな溝が確認されているが、掘立柱建物は未確認だった。それにも関わらず、総計261点にのぼる陶磁器破片が出土している。破片で最も多いのは珠洲(石川県)の擂鉢で、206点を数える。そのほかは瀬戸窖窯期の皿1がある。中国製品では染付碗3、白磁皿19、青磁盤1.、同皿2,同碗が29点と集計されている(塚田2007)。
珠洲の擂鉢が卓越しているのは大きな特徴であるけれども、その理由は不明。出土資料の9割以上が主郭内とその直下の調査区から出土したという。そして陶磁器の年代から、花沢館の存続期間は、安藤氏が南部氏との抗争に敗れて津軽十三湊を退去した永享4年(1432)から、勝山館築城前の1460年代までと推定されている(塚田2007)
主郭調査区の小さな溝などは、小規模な小屋掛風の建物に関係するものかもしれないが、遺物の出土状況を見れば、廃城直前に主郭に居住していたことが明らかである。中国銭の出土量も多く、廃城の時物を整理して移動することがかなわなかった可能性がある。新羅之記録では花沢館は陥落しなかったと記されているが、実際には落城した可能性も視野に検討すべきなのかもしれない。
引用文献
上ノ国町教育委員会2006年3月『町内遺跡発掘調査事業報告書Ⅸ』
上ノ国町教育委員会2007年3月『町内遺跡発掘調査事業報告書Ⅹ化研究第5
号』北方島文化研究会
室野秀文2007年12月「中世道南の領主と城館ー城館から見た蠣崎氏の松前進出ー」『北
方社会史の視座第三巻』清文堂