城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

三戸城 1 ー立地と縄張ー

 

 青森県の南端、三戸郡三戸町にある山城で、戦国時代は三戸南部氏居城。慶長8年(1603)盛岡藩成立後、南部利直は福岡城二戸市郡山城紫波町)、三戸城を使用しながら盛岡築城を進めた。寛永10年(1633)盛岡城が完成すると、三戸御古城として存続した。

 

1 立地

 三戸盆地の中央部に、標高130m、比高100mの城山がある。南北の斜面は高く切り立っており、西側が毘沙門平(びしゃもんたい)に続く尾根の鞍部になっている。この城山は、南側は馬淵川(まべちがわ)の氾濫原に臨み、北側の崖下を熊原川が流れる。城山の北東山麓から留ヶ崎の台地が突出し、馬淵川と熊原川は、留ケ崎の先端で合流している。三戸城本体の城山は、その西側に存在する。

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第1図 三戸城位置図

2 歴史ー南部氏と三戸城ー

 現在の青森県東部から岩手県北部にかけての一帯は、糠部(ぬかのぶ)という広大な領域だった。吾妻鏡文治五年の条には「糠部郡」と記され、延久二年(1070)の延久合戦から、平泉藤原氏の統治下において、閉伊郡、久慈郡、糠部郡などが郡となり、本州北端までが国家領域となった。糠部郡は、一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸と、東門・西門・南門・北門の、「九戸四門(くのへしもん」の行政区に区分され、それぞれの戸・門には、土地を代表する有力領主によって納められていた。

 16世紀中半の天文8年(1539)南部彦三郎は、室町幕府将軍足利義晴に謁見。偏諱(へんき)により、南部晴政となった(大館常興日記)。

 このころ、三戸南部氏は、糠部にひろがる戸(へ)の領主の一人であり、一揆的結合をもつ領主連合の宗主(代表者)であった。糠部には、八戸に根城南部氏(八戸氏)、七戸には根城南部氏分家の七戸南部氏、九戸には九戸氏、一戸には一戸南部氏、八戸の櫛引付近には四戸氏(櫛引氏)、久慈郡には久慈氏が存在した。建武の新政から南北朝時代を経て、室町中期ごろまでは、八戸の根城南部氏が総領的地位にあったが、その後は当主の夭折や内紛により、力を低下させた。これに代わって台頭したのは、三戸南部氏と九戸氏で、九戸氏は九戸(岩手県二戸郡九戸村)から二戸(二戸市)に進出し、新たに大規模な九戸城を築城し、居城としていたほか、鹿角方面にも影響力を及ぼした。

 晴政が偏諱を受けた同じ年、三戸南部氏居城の聖寿寺館(本三戸城:青森県三戸郡南部町)は、晴政と家臣赤沼備中の軋轢によって焼失した(南部根源記・祐清私記他)。この後、永禄年間(1552~1555)、南部晴政は、城山に巨大な山城を築いて移り、三戸城とした。険しく広大な山城の築城は、三戸南部氏の勢力を内外に知らしめるとともに、急速に勢力を拡大する、九戸氏に対抗する意味があったのだろう。

 天正9年(1581)ごろ、南部晴政・晴継父子の跡を相続した南部信直は、天正14年から15年にかけて、豊臣政権の有力大名、加賀の前田利家を通じて、豊臣秀吉に臣従した。天正16年7月の末、南部信直は斯波郡高水寺城の斯波詮直(詮基)を攻略。岩手郡・斯波郡を勢力下においた。続いて、天正18年(1586)南部信直は、小田原討伐の軍令により、前田利家の傘下に入り、小田原に参陣。同年7月28日、宇都宮で「南部内七郡」本領安堵の朱印状を交付され、豊臣政権下の大名としての地歩を固めた。同年の奥羽仕置において、小田原不参の大名・国衆は所領を没収された。

 翌天正19年(1591)1月、南部信直と対立していた九戸政実が挙兵。信直派の諸城を攻めた。信直は一戸月館に布陣して、防戦に努めたが、九戸勢の勢い激しく、苦戦を強いられた。3月、嫡子利正(利直)を上洛させ、豊臣秀吉に謁見。国元の情勢を伝えた。7月、豊臣秀吉は甥の秀次を総大将に、奥羽再仕置の軍を編成し、進発させた。9月1日に九戸方の支城、姉帯城(一戸町)・根反城(同)を陥落させ、九戸勢は一戸城(一戸町)を自焼して九戸城に引き退く。翌2日には九戸城が包囲され、豊臣軍の九戸城総攻撃が始まる。9月4日、九戸政実は降伏・開城。九戸政実、久慈政則らは三迫(宮城県栗原市)に連行されて斬首。九戸一揆終結した。

 落城後の九戸城は、蒲生氏郷によって、本丸を要に大改修されて、南部信直に引き渡された。このとき、三戸城も本丸や大手、搦手を中心に石垣が築かれるなど、改修された可能性がある。信直は氏郷を三戸城に歓待し、嫡子南部利直と、氏郷養妹の婚約が成立した。

 9月10日、南部信直は、浅野長吉(長政)とともに岩手郡不来方に到着した。不来方城を検分した浅野長吉は、信直に、この不来方へ居城移転をするよう奨めた。

 その後唐入りで肥前名護屋に出陣していた南部信直は、国元の利直に不来方新城(後の盛岡城)の築城を命じている。慶長2年(1597)3月6日、新城築城の鍬初の儀が執り行われた。

 慶長4年(1599)10月、信直が病没。信直の跡を継いだ利直は、徳川家康に従った。慶長8年(1603)江戸に幕府が開かれると、絵図をもって言上し、築城の継続を認められた。利直は浅野長吉の縄張を基に、新城を築き、名を盛岡と改めた。

 盛岡城築城中、南部利直の居城は、九戸城を改修した福岡城であった。盛岡城築城は、冬季間は工事を中断し、岩手・斯波の武士を在番させていた。また、北上川・中津川の氾濫。慶長16年、元和2年の地震による被害が重なり、築城には多くの時を必要としたため、三戸城・郡山城紫波町)も仮の居城として使用された。寛永9年(1632)利直が死去。後継は南部重直(2代藩主)である。

 寛永10年(1633)5月、南部重直が江戸から盛岡に入る。これ以後盛岡城が藩主居城として明治初めまで存続。三戸城は御古城として城代が置かれた。貞享年間(1684~1686)には、城代は廃止され、三戸代官所支配へ移行した。

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三戸城(南から)

 蒲鉾のような山容。南西から北東に延びる城山に築かれる。

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             第2図 三戸城周辺図三戸町教育委員会2021より)

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第3図 三戸城(主要部の現況縄張図)
                 調査・作図 室野秀文(三戸町教育委員会2021より)

3 城の縄張

 城山の中央に本丸をおき、本丸西寄りには城主南部利直の居館。北東部には諸役所が置かれた。居館北側、諸役所西側には石垣が築かれ、重層の櫓が存在した。本丸西側には土塁枡形に石垣を備えた大門があり、ここが本丸表門であった。搦手門は居館の東側、諸役所の南東側に存在した。

 本丸西に二ノ丸があり、ここには利直子息の利康、政直の屋敷。一門の石井氏、鳥谷氏の屋敷があった。二ノ丸から三ノ丸は中軸道路があり、二ノ丸西側には土塁枡形に欅門。三ノ丸には、目時氏、医者の屋敷、道路北には、桜庭氏、北氏の屋敷があった。二ノ丸西側には土塁枡形の鳩門があった。鳩門から下ったところの武者溜まりには、石垣の枡形に綱門があった。ここから坂を下ると、南西の突端、大堀切の上には物見櫓があった。西側へ坂を下ると坂下に大手門が構えられていた。本丸北側の低みには谷丸があり、諸役所の北に淡路丸、東には亀ヶ池、鶴ヶ池のある曲輪があり、南に上段馬屋、北に奥瀬氏の屋敷があった。この下の腰曲輪には鍛治屋敷。東側には石垣を備えた喰違虎口に鍛治屋門がある。鍛治屋門の坂下には、留ケ崎の台地が伸びて。三戸地侍たちの屋敷群があった。中軸の道路は北東へ延び、坂下に土塁の平虎口がある。留ケ崎下段にも道路が伸び、馬淵川の渡し場につながる。留ヶ崎上段には、中軸道路に直行し、熊原川へと下る道がある。一段下がった平坦部は土塁に囲まれ、広い一郭を造る。その東端、熊原川に面し、土塁の嘴状虎口がある。これとは反対側、留ケ崎南側中腹にも平場があり、ここにも枡形虎口が構えられていたと思われるが、鉄道の開削により不明である。

 

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         写真2 三戸城絵図 (三戸町教委2021に加筆)

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         写真3 三戸城本丸付近 (三戸町教委2021より)

◆引用文献

三戸町教育委員会2021年3月『三戸城跡発掘調査総括報告書』