蝶ヶ森館(経ヶ森:盛岡市門真立)
5月2日の廻館考で述べた、
盛岡市門(かど)の真立(まだて)にある蝶ヶ森館(ちょうがもりだて)。
江戸時代の文献や、大日本地名辞書(吉田東伍1906)には、経ヶ森と記されており、蝶ヶ森と呼ばれるようになったのは、さほど古いことではないらしい。山頂には経塚の痕跡(三角点がある)があり、岩手県内の諸例からみて、12世紀平泉藤原氏のころの経塚らしい。かつて壷が出土したとも伝承されている。
麓の門(かど)は、北上川西岸の西鹿渡(にしかど)に対峙して、中世の北上川渡渉地点であった。
真立は廻館から転化した地名で、頂部の曲輪を、多重壕が周回する城館の呼び名らしい。現在の遺跡地図では蝶ヶ森館となっているが、城館名としては真館(まだて)としたほうが良いのかもしれない。
北西斜面に外曲輪を増設するなど、北に対する防御がうかがわれる。ここは志和郡と岩手郡の境界に位置し、館主は土豪の吉田氏らしい。吉田氏は簗川流域の川目から、東中野安庭、門を基盤とする一族で、岩手郡と志和郡境界付近を領有しつつ、室町・戦国期の斯波御所(斯波氏)の北の備えの一つであったと考えられる。
戦国末期の天正10年(1582)ごろまでは、斯波御所の勢力は志和郡、岩手郡を中心に、広域に及んでいた。三戸の南部晴政・晴継死去ののち、南部信直が三戸南部家を継承し、しだいに斯波氏を圧迫した。
南部信直は、天正14年(1586)夏ごろから、前田利家を通じて豊臣秀吉に臣従した。同年秋には、斯波氏一門の雫石城(雫石御所:雫石町)を攻略。天正16年(1588)夏、斯波氏家中の離反を見た南部信直は、この山に陣取り、さらに志和郡陣ケ岡(紫波町)に陣を移して、7月下旬ごろ、斯波氏の高水寺城を攻略した。
積雪時の垂直写真で、卵形の山頂を取り巻く、幾段ものテラスと、空堀が見える。北西側斜面には緩やかに傾斜したテラスがあり、その北側にはへの字に曲がる空堀が見える。これは戦国期に拡張した外曲輪だろう。写真左下の灌木があるあたりは、北上川の河原の一部。現在でも、城館の地形は概ね保存されている。