城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

中野館(盛岡市茶畑)

 

 盛岡市中心市街地南東部。盛岡八幡宮の南側、茶畑一丁目地内にある松尾神社は酒造業者の信仰を集める神社である。この神社がある高台は、戦国末期の中野館に二ノ丸の先端部で、西側麓を通じた街道を監視する物見が置かれた場所と考えられる。

 中野館は、昔、飛鳥川館とも呼ばれたと伝承があるが、詳細は不明。天正年間(1573~1591)、中野康実(九戸政実の弟)がこれに籠り、中野館と呼ばれている。御当家(南部家)秘書(奥南旧指録・祐清私記他)に、「福士伊勢を慶膳館(不来方城)に、中野修理(九戸政実の弟)を中野館に、東西に相対して街道を挟む」とある。

 現在、松尾神社前から八幡宮前、住吉神社前、天満宮下、加賀野妙泉寺下、春木場から中津川を渡河し、山岸阿弥陀堂(山岸小学校)、愛宕下、松坂、法泉寺、高松神社東側、黒石野と北上する道は、南部氏の盛岡城下町開設以前の、古い街道であった。この街道は、南は中世の奥大道(おくだいどう・おくのおおみち:現在の国道4号線付近を通していた)が分岐して、現在の西鹿渡から門(かど)に渡河し、経ヶ森下、安庭、見石、簗川を渡河し、新山館、茶畑と、北上してきた道である。南の志和、遠野方面から来て、岩手郡不来方に入る道で、その入口を守る城館が中野館であった。

 中野館から見て、中津川の対岸にあった不来方城は、慶膳館・日戸館・淡路館で構成される大型の城館で、南北朝時代末期以後、不来方の領主福士氏が居住していた。この場所は北上川と中津川、雫石川が合流し、古来、岩手津(いわてのつ)という川湊があり、北上川舟運の要地だった。また、不来方には平安時代後期の十一面観世音像や金剛力士像を祀る仁王観音堂が存在したほか、三ツ石や徳戸部石、烏帽子石などの巨岩・怪石が信仰される聖地でもあった。現在も岩手県庁、盛岡市役所所在地であり、不来方は古い時代から政治経済の中心地であった。

元亀3年(1572)ごろ、九戸政実の弟康実は、斯波御所斯波詮直(詮元)に婿入りし、斯波郡高田村(矢巾町高田)を知行して高田吉兵衛直康となった。直康は斯波高水寺城の一郭にも居館を持っていた。

 天正14年(1586)、高田吉兵衛は、斯波家当主詮直と不和となり、斯波家を出奔。糠部三戸城の南部信直の下に走った。信直は直康に岩手郡中野村を与え、中野吉兵衛康実として、不来方城の福士宮内秀宗とともに、斯波郡の警戒と調略にあたらせた。

 斯波詮直は直ちに兵をあげて、南部氏の属城見前城(盛岡市西見前)を奪取し、中野館攻略に向かう。この時斯波勢が本陣としたのが、茶畑の簗川北岸の新山館といわれている。中野館の危急を知った福士秀宗は、手勢80騎で救援に向かい、中野勢と合流し、斯波勢を撃退している。その後、再び斯波勢と福士・中野勢が北上川を挟んで対峙した時、斯波詮直自ら川に乗り入れて攻撃しようとしたものの、斯波家家臣たちはこれに続くことなく、対岸の福士・中野勢から盛んに矢を射かけられ、斯波勢は引き返したといわれている。

 斯波御所が南部信直に攻略されたのは、天正16年(1588)夏のことである。

 盛岡八幡宮裏手の丘陵は、南北に長く、その南西部は高さを減じて、括れたのち、南西側に広い台地を形成。ここに中野館の本丸、二ノ丸が存在した。現在、市街化著しく、本丸は根こそぎ削られて平坦になってしまった。元の地形は、本丸を要に、二ノ丸が三方をとりまき、その西端が松尾神社のある高まりで、物見が置かれていたらしい。二ノ丸南東斜面には、数段の腰曲輪が存在した。

 東側、二ノ丸東側から一段下の腰曲輪にかけては、幕末期の山蔭窯跡がある。

 

中野館位置図   (盛岡市教委2019に加筆)

中野館地形復元図(盛岡市教委2019に加筆)

昭和23年中野館周辺写真

引用文献

盛岡市教育委員会2019年3月『山蔭焼窯跡』