岩手県と秋田県の境、奥羽山脈の貝吹岳(かいぶきだけ)は、国見峠の南にある、標高992mの山である。ここは、岩手県岩手郡雫石町から秋田県仙北市に抜ける、国道46号線仙岩トンネル真上の仙岩峠から、南へ700mほどの位置にある。現在山頂には、国土交通省の通信用反射板が設置されている。
戦国時代の天文9年(1540)、滴石の領主戸沢氏が、出羽仙北へ退去する際、この山頂から滴石へ向けて法螺貝を吹鳴したという伝承がある。当時戸沢氏は、出羽仙北の門屋城または角館城(いずれも秋田県仙北市)に本拠があり、岩手郡滴石も領有していた。貝吹岳は、滴石と仙北の連絡のため設けられた狼煙台的な砦と考えられる。当時の通信・伝達方法は、狼煙や法螺貝・鐘で知らせたのち、早馬で詳細を伝達していたので、国内のいたるところに狼煙山とか、鐘撞堂山、貝吹山などの伝承がある。滴石の貝吹岳も、まさに戸沢氏の連絡用の狼煙台や砦が置かれた場所であったのだろう。
山頂はほぼ自然地形であるが、三角点のあたりは幾分平坦。ほかに北側から西側に犬走状のテラスが巻いていて、簡易な砦のような施設が存在したように見受けられる。このテラスは南側や東側にも伸びている可能性があるが、丈の高い熊笹が密生しているため、確認することは難しい。
盛岡南部氏の伝える歴史では、天文9年(1540)南部晴政が岩手郡の国衆を従え、一人応じなかった滴石戸沢氏を、南部氏一族の石川高信(南部信直の実父)が攻撃。滴石城を火攻めで陥落させ、戸沢氏は出羽仙北に逃れたとする(岩手県史第3巻・雫石町史ほか)。
天文年間(1532~1554)の岩手郡は、北からは糠部の南部氏や九戸氏の進出があり、南からは斯波郡高水寺城(紫波町)の斯波氏も、積極的に岩手郡へ侵攻した時期である。郡北西部には、一戸南部氏が早い時期から西根盆地(八幡平市)へ一族を置き、天文15年(1546)石川高信は、一方井(いっかたい:岩手町)の領主一方井刑部の娘との間に亀九郎(後の南部信直)が生まれ、岩手郡に勢力を拡大していた。
天文14年(1545)、斯波御所(高水寺城)の斯波経詮は、岩手郡に深く進攻した。岩手郡の国衆は三戸南部氏から援兵を得て、斯波勢を退けたとする(奥南落穂集)が、これは現在の岩手郡北部から北西部のことだろう。現在の盛岡市、雫石町のほとんどは、斯波氏の制圧下にあったからである。
この天文14年の前か後かは明確ではないが、斯波経詮は、弟の詮貞を雫石に、次の弟詮義を猪去(いさり:盛岡市猪去)に配置している。これ以後斯波氏は、高水寺の志和御所・雫石御所・猪去御所の三御所体制で領地経営にあたり、後には稗貫郡にも侵攻し、一族を稗貫氏当主に据え、遠野保の阿曽沼氏、和賀郡の和賀氏も半ば従属させて同盟関係を結び、北上川の上・中流域に広域勢力を形成した。室町幕府足利氏や奥州探題大崎氏凋落の後も、斯波氏は勢力を拡大した。
従来は、三戸南部晴政が、石川高信を主将に滴石戸沢氏を出羽に敗走させたが、後に斯波氏に滴石を奪われて、斯波氏の志和・雫石・猪去の三御所体制になったと考えられてきた(岩手県史第3巻、雫石町史、甦る雫石郷の歴史)。ただ、天文9年の滴石攻略が本当に三戸南部氏によるものであったのかどうかは、時期が早すぎるのではとして疑問視されている(菅野文夫2003)。当時滴石の一部であった、盛岡市繋の湯坂峠には、戸沢氏が斯波氏の侵攻に備えて関門を置いたという伝承(岩手郡誌)があり、同峠の要所には、堀切や土塁が構築されている。また、奥南落穂集には、滴石戸沢氏は斯波家により領地を掠取された旨の記述がある。天文9年の南部氏の滴石侵攻は、後の天正14年(1586)南部信直の雫石御所攻略の話を、父親の石川高信の実績を喧伝するために遡及させた説話であるのかもしれない。
斯波氏の雫石御所と猪去御所の設置、その後の斯波氏勢力の隆盛を考えれば、天文9年の滴石攻撃は、三戸南部氏によるものというよりは、斯波御所の岩手郡侵攻の一環で実施されたと考える方が、自然ではないだろうか。その結果、戸沢氏は敗れ、出羽仙北へ退去したと考えたいところである。
■ 引用・参考文献
菅野文夫 2003 「大釜館遺跡と中世の岩手郡」『大釜館遺跡発掘調査報告書』滝沢村
埋蔵文化財センター
高橋輿右衛門 2013 『甦る雫石郷の歴史』雫石町教育委員会