城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

謎の山城 滴石大館

岩手県盛岡市の西方、秋田県境に近い、岩手郡雫石町山津田にある大規模な山城。雫石川の北岸、JR秋田新幹線と国道46号線のすぐ上にある標高354m、比高120mの山上にある。JR田沢湖線赤渕駅(雫石駅から西へ二駅目)の北東に見える山で、登る際には、赤渕駅東方の山津田集落に入り、大館の南西側尾根から登るルートが、比較的登りやすい。

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                大館位置図  (国土地理院Webに加筆)

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雫石盆地から見た大館

 

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                 大館(南西から)


 文献上での滴石(雫石)の初見は、南北朝時代南朝:興国元年・北朝:暦応3年(1340)12月20日の、南部政長あて北畠顕信御教書(遠野南部家文書)である。内容は「岩手郡に対峙して西根に要害(山城)を構えたことを祝し、明春には和賀・滴石(戸沢氏)と一手となり、斯波氏(斯波郡の足利氏)を打ち破り、国府多賀城)に攻め上らん。河村六郎(斯波郡東部の武士)が御方(味方)となるならば、相応の行賞の用意があることを必ず伝えておくように」と、南部政長(前遠江守)に指示した文書である。この西根要害については、岩手郡雫石町の大館とする説と、岩手郡の北西部旧西根町、現在の八幡平市西根の平舘(たいらだて)とする説がある。雫石町ならば盆地西部の(旧西山村)山津田の大館とされる(高橋輿右衛門2013)後に北畠顕信南朝:正平元年(1346)から正平6年(1351)の約5年間滴石に逗留し、出羽へと移っている。岩手郡北西部西根の平舘は、南部政長の後裔、根城南部氏(八戸氏)の所領の一つ(遠野南部家文書)であり、平舘城背後の館山には、年代の古そうな山城跡がある。どちらも根拠のある説であり、にわかには決めがたい。史料の読み方も検討されなくてはならない。

 大館の山頂には、東西70m、南北30mの不正長方形の主郭(しゅかく)、その北東に30m×20mの副郭(三角点がある)があり、その三方を起伏のある二の曲輪(くるわ)が囲む。主郭内部には大小の竪穴建物らしい窪みがある。大きな竪穴は西側に低い土手を伴うが、竪穴は埋没して不明瞭である。二の曲輪の東端は、径50mほどの円い平場で東に突き出し、その下を比較的大きな空堀が廻る。東尾根には2方向に細尾根が伸びて、その基部を一重のやや小ぶりな空堀で断ち切られている。それぞれの尾根には小型の竪穴建物と思われる窪みがある。北方向に延びる尾根には、不正形な曲輪と、先端に小さな曲輪が配置され、空堀が周回している。空堀は山側を切り落とし、外側へ土塁を盛ったもので、埋没が進行して浅くなり、平場のようになっているところもある。東側には一段低く、帯状の腰曲輪がめぐる。二の曲輪の西側は土橋のある平虎口が開いており、西側は70m×40mの起伏のある曲輪で、4か所ほど竪穴状の窪みがある。その西側は一条の堀・土塁を隔て、竪穴状窪みが大小7基ほど存在する、平場の集合体がある。その先端は二重堀切になり、西端は大ぶりの竪穴状窪みがあって、粗野な造成で4段の平場がある。

 この大館への本来のルートは、山津田集落から主郭南下の斜面を登り、主郭・副郭東側の鞍部に登るのが大手道と推定される。

 大館から深い沢を隔てた東側の台地には、弧状の大きな空堀で区画された別郭(べっかく)がある。堀の内側は二段になっており、堀の改修(掘り直し)が推定される。曲輪内には堀に沿って弧状の土塁があり、2か所に虎口がある。東側の土塁内面には、一部浅い空堀状の低みがある。曲輪の内部は自然の起伏が残り、2か所にピークがある。東斜面に4段ほど緩やかな段築が残り、縦堀状のところから湧水が認められる。

 

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滴石大館縄張図

  ※ 図中の薄緑=空堀・堀切、オレンジ色=土塁、薄紫=竪穴状窪み

       水色=井戸・湧水

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                北尾根の小曲輪

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                  東側空堀

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                 東側空堀

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               西尾根の二重堀切

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                西尾根の平場

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               西尾根の竪穴状窪み

 大館は大規模な山城である。東側の空堀は腰曲輪と併せて二段に構えられ、沢の東に別郭を伴うなど、東側に防御の重点が置かれた構えである。全体に平場や曲輪の造成が粗野であり、堀も埋没が進んでいることからも、戦国時代後半までは降らない時期の山城ではないかと思われる。雫石盆地の要の城館は、雫石駅近くの雫石城と、その南東にある滴石古館である。どちらも連郭式の大形の城館であるが、滴石古館は戸沢氏の滴石城。雫石城は、天文年間(1532~1554)に戸沢氏を降してこの地に進出した斯波氏(斯波御所)一族、雫石斯波氏の居城である。斯波氏は天正14年(1586)南部信直の侵攻によって雫石城を失い、同16年7月末には本城高水寺城(紫波町)も追われて滅亡する。その後雫石城は、南部信直直轄城として天正20年(文禄元:1592)まで使用された後破却。以後は代官所支配となっている。この大館は、恐らくは戸沢氏(滴石氏)の構築した山城と推定され、室町から戦国時代初期あたりまでの滴石古館(滴石城)の詰城であった可能性が高い。斯波氏などの外圧があった際には、大館へ退き、抵抗することを想定していたと思われる。当時、戸沢氏は奥羽山脈を越えた出羽国仙北郡にも所領があり、門屋城または角館城(ともに秋田県仙北市)を本城としていた。滴石が危急の場合には、出羽の仙北に退去する選択肢は当然あったと思われ、中間の貝吹岳は、連絡用の狼煙台であろう。このことは、南北朝期の北畠顕信の動きとも重なっていることが注意される。大館の遺構の様相から、その創築が、南北朝期にまで遡る可能性も否定はできない。ただし、地表面観察のみでは詳細な年代は不明確と言わねばならず、実際の築城、廃城の年代、城の変遷については、考古学的発掘調査の実施を待たねばならないのである。

 

◆ 引用文献・参考文献

高橋與右衛門 2013 『雫石町史通史編 甦る雫石郷の歴史』雫石町教育委員会

室野秀文 2017 「大館」『東北の名城を歩く北東北』吉川弘文館

室野秀文 2021 「平館城」『続東北の名城を歩く北東北』吉川弘文館