城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

盛岡城三ノ丸の烏帽子岩

盛岡城三ノ丸の大手筋、瓦門の虎口です。現在、石垣修復工事が始められようとしています。

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瓦門に向かって左側(東側)、巨大な烏帽子岩が目を引きます。

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現在、三ノ丸の北東部には、盛岡藩主を祀る桜山神社が鎮座していますが、

この場所は不来方城(こずかたじょう)当時からの神域でした。

不来方城は、室町時代から戦国時代、不来方領主福士氏の居城でした。

当時は、この岩の頂の三角部分が、地上に出ていたそうですが、

南部氏がこの城を接収して、盛岡城を築く際に、三ノ丸の造成で地形を削り

さげていきましたが、どんどん岩が大きくなり、現状の姿になったものです。

南部利直は、これを吉兆石としてそのまま残したといわれています。

盛岡築城中、冬季は工事を中断して、岩手郡・斯波郡の武士たちが在番していました。

この三ノ丸は、日戸曲輪(ひのとくるわ)とも呼ばれ、

築城中、岩手郡日戸(盛岡市)の領主日戸氏が、

家臣20名ほどで警備にあたっておりました。

毎年大晦日には、日戸氏が注連縄を貼り替えています。

 

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西側から見た烏帽子岩

 

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               南側から見た烏帽子岩

不来方城は、後の本丸を淡路館、三ノ丸を日戸館といいました(星川生甫『盛岡砂子』南部叢書第一冊)。

この岩がほとんど隠れていたということは、日戸館が、本丸と比肩する高さがあったことになります。

不来方城の地形がわかる伝承です。

この岩の注連縄は、毎年大晦日に、日戸氏の末裔の方が架け替えているそうです。