岩手県滝沢市の大釜にある城館。JR田沢湖線・秋田新幹線の大釜駅(※新幹線はとまりません)から徒歩15分ほどのところに東林寺という寺があり、その周囲が大釜館跡です。戦国時代末期には、和賀氏の支族大釜氏が居住していました。
大釜館から西に1.3キロメートルに八幡館山(H=245m)があり、八幡館が築かれています。
積雪期の写真で中央が八幡館山。山頂は径40mほどの円い平坦部で、周囲を空堀やテラスが周回しているのが見える。南東斜面は雛壇状にテラスが造成され、囲郭する空堀から、竪堀が分岐しています(写真ではわかりませんが)。北東尾根には二重の堀切。北側中腹には犬走状のテラスが周回している。竪堀や雛壇状テラスは、戦国期の山城のものです。この山から右下に少し離れて、八幡宮の森が見えます。この境内にも小さな堀やテラスが認められます。
大釜館も八幡館も、中世城館であるけれども、11世紀の遺跡も重複しており、当時の土器が出土しています。大釜館では、外館という地域に大形の掘立柱建物の屋敷跡があり、建物跡と周辺の溝から、11世紀の坏がまとまって出土しています。八幡館山山頂からも、同質の土器破片が多く採集されていて、同時期の城館の存在がうかがわれます。
また、この山は白山(しろやま)とも呼ばれ、安倍宗任が居たという伝承があります。山の西側の千ヶ窪は、源義家が兵を潜ませたところ。大釜の地名は、義家が大きな釜で炊飯したことに由来するといわれています。
このあたりは、岩手・志和から雫石に抜ける要路で、八幡館山の上からは、遠く紫波町方面まで望まれます。この地に大釜氏が入ってきたのは、斯波御所を要とする、広域勢力が形成されたことと関連し、斯波氏影響下にあった和賀氏の支族太田氏が、雫石川の対岸、太田館にも居住していました。
天正14年(1586)から南部信直が侵攻し、同年秋に雫石御所(雫石城)が攻略され、さらに天正16年7月末ごろ、斯波氏は高水寺城を追われました。
途中からテラス状になり、右奥の社殿のほうへ巡っています。社殿の前(東)は、神社によって削平されています。