城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

滴石古館・雫石城(雫石御所)

第1図 関係地図                国土地理院地図に加筆)

   雫石盆地は、岩手郡南西部にあたり、北上川沿いの岩手郡、斯波郡から、出羽の秋田方面へ向かう道筋で、周囲を山に囲まれた盆地である。中世滴石の鎌倉時代の動向は不明確。滴石の戸沢氏(滴石氏)が史料に明確に表れるのは、南北朝内乱期に入ってからである。

 延元3年(暦応元年:1338)南朝陸奥北畠顕家は、足利勢討滅のため西上したが、和泉堺浦(大阪府堺市)で、足利の高師冬と対戦して敗死。この時、南部政長(八戸氏:根城南部氏)の兄師行も、顕家と運命を共にしている。

 吉野の南朝からは、北畠顕家の弟顕信を、陸奥鎮守府将軍として奥州に派遣した。

 興国元年(1340)牡鹿郡葛西氏の許に逗留していた北畠顕信は、南部政長に対して、政長らが岩手郡西根(岩手郡の北西部)足利勢を打ち破り、西根(八幡平市西根)に要害を構えたことを祝した。また、明春には、和賀氏、滴石氏が一手となり(共同して)、斯波氏を南北から攻撃すべきである。それに先立ち、斯波郡河東の領主河村六郎を御方に勧誘べきこと伝えている。足利方の斯波氏の孤立化を図ったのだろう。翌興国2年(1341)4月には栗谷河(盛岡市厨川)において合戦があり、北朝の稗貫勢が大敗している。

 正平2年/貞和3年(1347)、顕信は伊達郡霊山城に拠るが、室町幕府奥州管領の吉良貞家によって霊山城は陥落。敗れた北畠顕信は滴石城に入る。顕信は正平6年/観応2年(1351)ごろまで滴石城に逗留していた。この間、正平4年/貞和5年(1349)3月16日には、奥州管領吉良貞家が「糠部・滴石以下凶徒対治」(飯野家文書)。正平5年/観応元年(1350)5月には奥州管領畠山国氏が「糠部・滴石凶徒対治」(留守家文)として軍勢を招集しており、南部政長の糠部と、北畠顕信が拠る滴石が、北朝方の攻撃対象となった。同年6月18日には、岩手郡上田城北朝勢を攻囲していた南部政長に対し、和議が成立したので、囲みを解くように命じている。滴石からの指令だろう。

 その後北畠顕信は正平8年/文和2年(1353)宇津峰城(福島県郡山市須賀川市)に籠城するも、吉良定家の攻撃に敗れ、出羽へ逃れた。

 この滴石城は、雫石川黒沢川合流点に突き出した滴石古館がその遺跡と考えられる。堀の埋没など、地形改変が進んでいるが、空堀の痕跡を辿ると、後の雫石城に対峙する古館の最高所に曲輪が一つ。この南東側に続く西面の段丘崖に曲輪が4つ以上並列しているのが読み取れる。ここは滴石戸沢氏の居城と推定され、南北朝当時まで遡る可能性がある。

 また、盆地西方の山津田にある大館は、滴石古館(滴石城)の詰城と推定されている、多郭構造の大きな山城である。(註1)。

第2図 滴石古館・雫石城位置図            国土地理院地図に加筆)

第3図 滴石古館縄張図

 南北朝合一の後、滴石氏は滴石盆地をそのまま領有していたと思われる。

 永享7年から8年(1435~1436)に勃発した、和賀・稗貫合戦では、斯波御所(西御所)の指揮のもと、北奥の武士が多数動員され、稗貫氏鎮圧にあたった(稗貫状)。斯波御所の指揮下に南部遠州遠江長安)のほか、岩手・滴石・閉伊も入っており、滴石氏は健在だった。

 滴石氏(戸沢氏)は、南北朝から室町時代、戦国時代の天文9年にかけて、滴石の領主として存続した。また、出羽の仙北北浦地方にも戸沢氏が居住しており、滴石氏と一族であるという。ただ、出羽の戸沢氏については、南北朝時代南朝から北朝に転向し、仙北郡に所領を得た和賀氏一族(4)という指摘もあり、はっきりしない。

 雫石盆地と出羽仙北郡との分水嶺には貝吹岳(H=992m)がある。後年滴氏戸沢氏が出羽に退去する際に、貝を吹鳴したという伝承があるが、実際には、出羽と滴石の連絡に使用された狼煙台の可能性がある(5)。

 天文9年(1540)、志和郡の斯波御所が岩手郡に侵攻。滴氏戸沢氏を出羽仙北に追い落とした。先述の滴石戸沢氏の退去はこの時のことと考えられる。従来、盛岡南部氏の伝記では、三戸南部家の南部晴政の意向により、叔父石川高信(南部信直の父)が滴石を攻略したと伝えている。

 ただ、その後の経過を考慮すると、この時の軍事行動が、三戸南部氏の独力でなしえたとは考えにくい。恐らくは斯波御所が主導して滴石攻略が実行されたのだろう。それは、天文年間(1532~1554)の後半に、斯波御所の二人の弟が、滴石と猪去(盛岡市猪去)に分知されて、斯波高水寺の斯波御所と、雫石御所、猪去御所の三御所体制が整った。このころ、岩手郡不来方(盛岡)、厨川、太田、猪去、雫石は斯波御所の領域となった。

 岩手郡には一戸南部氏が北西部の西根、平舘方面に早くから進出しており、三戸南部氏の庶流田子高信(石川高信)も一方井氏(岩手町)の娘を娶り、後の南部信直が誕生している。また、九戸政実不来方福士氏と縁戚となったほか、自身の弟康実を、斯波御所に婿入りさせている。九戸氏や久慈氏も、斯波御所と深いつながりを持っていた。

 この後、弘治2年(1556)、斯波御所は南の稗貫郡に侵攻し、稗貫重臣の瀬川氏の居城大瀬川館を攻略したほか、翌年には斯波郡南東部に接する、稗貫郡の大迫、亀ケ森両氏を内応させて勢力下においた後、斯波一族を稗貫当主に据えた。稗貫氏は斯波御所に飲み込まれた形になった。

 永禄元年(1558)には、福士領内の不来方愛宕堂宮殿を斯波御所が再興している。岩手郡南の要であった福士氏もまた、斯波氏の支配下に属していた(北上市史第2巻)。

 また、和賀氏や、遠野の阿曽沼氏との同盟を進め、和賀氏、阿曽沼氏配下の武士が、斯波氏へ多く出仕し、岩手郡太田、大釜にも和賀氏配下の達曽部氏が居住していた。つまり、斯波御所の勢力は、斯波郡を中心に南は稗貫、和賀、遠野。北は岩手郡南半部に及び、斯波御所を盟主とした広域勢力と秩序が形成された。従来は、天文9年に南部晴政が滴石を攻略したのち、ほどなくして斯波氏に滴石が奪われたとされてきたが、これはあまりにも不自然である。また斯波御所は、永禄元年(1558)に福士氏領内の不来方愛宕堂宮殿を再興しており、岩手郡南の要であった福士氏もまた、斯波氏の支配下に属していた。天文9年の滴石侵攻を、南部晴政の命を受けた石川高信の実行とするのは、後に三戸南部家を相続し盛岡藩祖となった、南部信直の実父高信の功績を喧伝するための、後世の潤色であろう。

 この斯波氏の雫石御所成立の時に、戸沢氏の滴石古館から、雫石城への移転が行われたと考えられる。

 

第4図 雫石城縄張図

 

本丸の八幡宮

八幡宮を廻る土塁

本丸、二ノ丸間の空堀

城内を通じる街道(本丸内)

 新しい雫石城は雫石町の下町にある。ここは古館の北西側の地続きで、現在秋田新幹線が通じる掘割がその東限にあたる。南東から北西に延びる街道が城内を通じ、これと直交する空堀や堀切により、城内を5~6郭に分割し、段丘上を広く、連郭式に縄張している。早くから宅地化が進行し、縄張が一部不明瞭なところがある。

 中心部の本丸は、北東部に八幡宮が鎮座し、方形の土塁が廻る。本丸東側は二重の空堀で区画し、東側には出丸とみられる曲輪がある。本丸西側には二ノ丸、三ノ丸があり、三ノ丸西側の空堀は大きい。この西側にも1条か2条の小さな空堀が存在し、道路の南に永昌寺がある。このあたりは外曲輪で、家臣屋敷などが想定されている。また、西方の臨済寺、広養寺の付近も空堀に囲まれて複数の曲輪が認められる。城域の一部なのか、時期の異なる城館なのか、判断に迷う。この北側道路沿いには、藩政時代に滴石代官所が存在した。

 雫石城(雫石御所)は天正14年(1586)10月下旬までに、南部信直によって攻略された。この年の8月、信直は加賀の前田利家の下へ、重臣北信愛を派遣し、豊臣秀吉に馬、鷹、太刀を献上して臣従の伺いを立てた。8月12日付けで豊臣秀吉から鷹などの返礼とともに、前田利家より「内證之趣」について聞き入れたこと、今後は前田利家に相談すべきことを伝えている(盛岡南部家文書)。雫石攻略は、豊臣政権の意向を伺い、了解の上で実施されたと考えられる。翌、天正15年6月29日付けで、前田利家南部信直に対し、豊臣秀吉への執成しを粗略なく行うことを、血判起請文にて取り交わした。

 天正16年7月下旬から8月初めにかけて、斯波御所高水寺城は、南部信直により攻略された。2年後の天正18年(1590)7月27日、南部信直に対し、南部内七郡の本領安堵の朱印状が交付され、南部信直は大名としての地位を確かなものとした。

 雫石城は南部信直直轄の城として、代官が置かれたが、天正20年(1592)、城割で破却された。

註1 本ブログの2021年5月11日「大館ー中世滴石の詰城かー」を参照