城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

安倍貞任伝説の山城 阿部館山(H=1221m)

※ 以前投稿していた、阿部館山登頂記を改稿しました。

写真1 阿部館山遠景 滝沢市八幡館山からの遠望、山の手前市街地は盛岡市

 

1 阿部館山の位置

 岩手県盛岡市と、同県下閉伊郡岩泉町との境界にある大規模な山城跡。標高1221m、盛岡市側の中津川との比高610m、岩泉町側の櫃取との比高は420mの山で、内陸部と三陸沿岸部を分ける、北上山地分水嶺に位置する。周囲の谷は深く刻まれているが、阿部館山南方の区界峠付近から、北の御大堂山、外山、薮川など、山の稜線付近は、なだらかな起伏の隆起準平原である。北側御大堂山南の鞍部は、下閉伊の岩泉と内陸の盛岡を結ぶ釜津田道が通じ、南の区界峠は、盛岡と太平洋岸の宮古を結ぶ宮古街道である。阿部館山の稜線は、なだらかな地形を利用して、南北に縦走する道が考えられる。

 この山の名称は、国土地理院の25000分の1地図では「阿部館山」となっているが、下閉伊郡誌(岩手県教育会下閉伊郡部会1939)では「安倍舘」と記載され、平安時代安倍貞任(あべのさだとう)が立て籠った所と、伝承されている。

写真2 岩泉町ヒエガラ沢から見た阿部館山 山頂南側(左側)にテラス状の段築が見える

 

写真3 椴松沢から見上げた阿部館山 矢印は空堀、本曲輪下斜面に多数の段築

 

写真4 椴松沢北の尾根から見た阿部館山 山頂を周回するテラスが見える

 

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第1図 阿部館山位置図 (国土地理院地図に加筆)

 

写真5 岩泉町小本方面の眺望 彼方にかすかに水平線が見える

 

写真6 山頂から見た早池峰山

 

写真7 山頂から見た岩神山

 

写真8 山頂から岩手山の遠望

 

2 阿部館山の登頂

    夏場は濃密なクマザサと灌木に遮られ、現地に到達することは困難で、仮に到達できても、地表観察で遺構を確かめることが難しい。また、冬場は猛烈な吹雪で遭難の危険が大きい。このため筆者らは、東側の松草峠の林道ゲートが開かれる、4月中旬に、残雪に覆われた状態で、地形の起伏を確かめることにした。この時期ならば、笹や灌木は圧雪で押さえられ、表面の起伏でおおよその地形が判明するはずである。2012年4月15日、山の好天を見計らい、登頂を試みた。

 当日早朝、仲間のF澤氏、T橋氏と3人で盛岡に集合し、山に向かった。櫃取の集落から西へヒエガラ沢添いに進み、間もなく積雪で車の乗り入れが無理になり、林道に駐車。ヒエガラ沢沿いに林道を歩く。やがて林道は、阿部館山北東下の、椴松沢(とどまつざわ)に突き当たる。ここから道は右(北)に折れて、江戸後期の宮古街道(釜津田道)の峠に通じる。この椴松沢から見上げたのが写真3である。沢の北側の尾根に取りつき登りはじめた。この尾根の頂部から、人工的な段築が見られた。北側の出曲輪と仮称したピークを経て、北側の切岸をよじ登り、昼前に登頂。山頂は広くゆるやかな地形で、20数名ほどの登山チームが昼食をとっていた。南東側の櫃取湿原の近くから登ったのだそうだ。我々も三角点近くで昼食をとる。そのあと2時間ほど山頂周辺の地形を調査した。F澤氏は都合により、一足先に、東側から下山。T橋氏と私は14時30分ごろまで山頂付近を縄張調査して、下山。途中、何度か休憩をとりながら、駐車地点まで戻ったのは、あたりが真っ暗になった19時すぎであった。

第2図 阿部館山の縄張図 堀跡を緑色、堀の推定ラインを緑の破線で表示

 

3 阿部館山の遺構

 この山城は、山頂部分の本曲輪。北にやや離れて存在する出曲輪。周辺部斜面に構築されたテラス状の地形からなる。

 本曲輪は南北420m、東西160mの不整楕円形で、空堀と考えられるテラスが周回する。本曲輪の北側は比高差12mほどの切岸となり、その下に二段の空堀が東西に造られている。堀は埋没が進行して、テラス状になっている。また、本曲輪縁辺部やテラス縁辺部も、土が流れて丸くなって、明瞭なエッジが残らない。中世後期の山城の曲輪や堀は明瞭にわかるのだが、ここではやや不明瞭で、長い経年変化を感じさせる。本曲輪の周りには、二重ないし三重以上の堀が構えられている可能性が高く、縄張から類推される堀については、緑色の破線で表示した。規模の違いはあるけれども、秋田県横手市の大鳥井山遺跡(国史跡)の小吉山や台処館とよく似た構造になっている。

 本曲輪北西斜面には、「御金蔵岩」という2本の石柱状の岩が並ぶ。この岩の南側は、比高15m~20mの切岸であるが、北西側の尾根筋からの通路が本曲輪に到達し。その部分の虎口(こぐち)は通路状に切れ込んで、本曲輪中央部に登っている。本曲輪反対側の東側にも浅い通路状の切れ込みがある。

 山頂の稜線は5つのピークになっており、これが盛岡市下閉伊郡岩泉町との境界線になっている。真ん中のピークが標高1221mで最も高く、南側の三角点のあるピークは1218、1mである。頂部本曲輪は自然の起伏を残して、地表を軽く造成し、下の斜面部に空堀を廻らせた構造である。郭内に竪穴建物跡の窪みもあるのかも知れないが、調査時は、笹の上に70cm~80cmの積雪のため、その存否は不明である。

 周囲の斜面のテラス(段築・切岸)は、本曲輪直下のテラスを含めて、西側斜面で5段以上、東側で6段以上、南から南東には5段~7段以上を確認している。調査当日、先に東斜面を下って行ったF澤氏によれば、中腹よりも下のあたりまで段築が連続して設けられていたと云う。写真3の本曲輪下の斜面部を注意してみていただくと、テラス状段築がいくつも構えられていることが分かる。

 南側テラスには、大きな楕円形の池のような窪みがあり、そこから南斜面に水路のような溝が通じている。池のような所には湧水があるのかもしれない。そこから西方には尾根がのびているが、かなり大きな平坦面がある。その先は確認していない。

 北側は二段(二条)の堀があり、東へ延びて、東斜面のテラス群の北側を区画している。麓の椴松沢橋から見えた堀の窪みは、この二条の堀である。

 この堀のある鞍部を隔てて、北側のピークに別郭(べっかく)のような曲輪(くるわ)がある。とりあえず出曲輪としておいた。頂部の平場の北側を、半月形に三段の小さなテラスが囲み、さらに北側には広い削平地が造成されている。

写真9 本曲輪北辺の東側 矢印下が曲輪(テラス)の縁辺部

写真10 本曲輪北辺の東側~中央

 

写真11 本曲輪北辺中央

 

写真12 本曲輪北辺西側


 

 

写真13 山頂北西隅斜面にある御金蔵岩

 

写真14 上から見た御金蔵岩

 

写真15 本曲輪北辺の切岸

 

写真16 頂部の地形

 

写真17 三角点の表示 実際の山頂はこの北側で、ここよりも3mほど高い

 

写真18 東側のテラス(堀跡)

 

写真19 本曲輪東縁辺部の切岸

写真20 南から見た出曲輪

 

写真21 北側から見た出曲輪 頂上から中腹が三段に造成され、一番下には広い平場がある

   第3図 前九年・延久・後三年合戦と阿部館山盛岡市遺跡の学び館2019に加筆)

4 阿部館山の特徴

 調査結果から、阿部館山の要点をまとめると、以下のようになる。

a 岩手郡と閉伊の分水嶺に位置し、岩手県内の城館跡では最も高い場所に立地してい

 る。

b 中心部は、自然地形に多くを依存したプランで、単郭多重周壕形式の古式の構造で

 あり、少なくとも中世後期まで降るものではない。概ね平安時代中期の11世紀後葉か

 ら14世紀ぐらいまでの間の、いずれかの時期と考えられる。

c ひじょうに大規模な城館で、周囲の段築(テラス)など含めると、南北1200m、東

 西1600mに及び、立地と規模、全体の土木工事量から考えて、構築主体は一地方の豪

 族層ではなく、国家的要請に応じて築かれた城館であったと考えられる。

 

5 阿部館山の年代と背景

 発掘調査は全く行われていないが、城館の遺構を他の類例と比較検討することにより、ある程度の絞り込みは可能である。先述のbのとおり、自然地形を最大限活用し、周壕を廻らせた城館は平安時代から鎌倉、南北朝期ぐらいの事例が多く、阿部館山の地形と遺構のありかたは、11世紀清原氏の大鳥井山遺跡(秋田県横手市)の小吉山、台処館の様相と酷似している。自然のゆるやかな平坦部を活用して、斜面部に段築(テラス)や空堀を二重ないし三重に周回させている。単郭多重周壕とでもいうべき構造である。

 東北地方北部の平安時代防御性集落(囲郭集落・環壕集落)は、10世紀中ごろから12世紀のある段階まで構築されている。集落の一部、または集落の大半部分を堀で囲み、時代が新しくなると、多重周壕のものや、複数の曲輪を連ねる複郭構成の強固な構えの集落が出現する。

 11世紀、奥六郡の安倍氏陸奥鎮守府胆沢城の在庁官人(役人)の筆頭格となり、奥六郡の各地に一族を配置。実質的に奥六郡を領有するに至る。

 安倍氏の本拠地鳥海柵岩手県金ケ崎町西根)では、沢で開析された段丘地形を活用して、独立した曲輪や、方形に区画した居館、一族の屋敷地、四面廂の官衙建物が配されている。

 南端の二宮後(にのみやうしろ)地区は自然地形の崖と沢による独立曲輪で、堀は伴わない。ここから沢を隔てた鳥海地区は西方に長大な直線の堀を掘って区画し、内部に兵舎らしい建物を配している。さらに沢を隔てた原添下(はらそいした)の台地は南東部をL字形の空堀で方形区画して、約80m四方の居館を設けている。さらに北の縦街道地区は、堀は構えられていないが、高床の掘立柱建物で、四面に廂を持ち、侍廊を伴う格式高い建物跡が確認されている。

 鳥海柵の堀は、鳥海地区の堀も、原添下の堀も一条の単壕であり、清原氏の大鳥井山などの多重周壕とくらべれば、あまり重防備とは言えない構造である。当主の居館(原添下)と人馬の駐屯域(鳥海)、台地先端の要害として曲輪(二宮後)は存在するけれども、沢で隔てられた分散的な構成をとっている。そして、最も格式高い四面廂の大形てものは、堀などの防備のない、郭外の広い平地に存在している。床束のある高床の建物で、賓客をもてなしたり、政治的意味合いの強い宴が開かれた建物だろう。

 一方、清原氏の大鳥井山遺跡は、小吉山、大鳥井山、台処館の三つの丘陵にまたがっている。

 小吉山は内部を二郭に区分して、大形の堀二条が丘陵の裾を囲む。南東部では堀が三重になって分岐しており、南隣の大鳥井山と一体化している。小吉山は北側の高い曲輪が主郭(しゅかく)と考えられ、略方形に堀が囲む。北側には堀の折れ邪(おれひずみ)があって、北からの虎口が想定され、これに横矢を掛ける工夫がみられる。居館と考えられている。南側には掘立柱建物、竪穴建物からなる屋敷が複数あり、堀の内側には柵、逆茂木、櫓、門が構えられている。

 大鳥井山は小吉山や台処館よりも狭長な丘陵で、横手川に臨む山城のような景観である。頂部平場には掘立柱四面廂建物がある。頂部平場は小さな曲輪から大きなプランへと拡張されているが、東尾根には堀切が数条あり、周囲の中腹にも二条から三条の堀が構えられる。大鳥井山遺跡では、最も厳重な構えを持つ。

 羽州街道を隔てた東側の台所館は、頂部平場が広く、内部に居館の存在が推定できるが、詳細把握には至っていない。周囲には段築が周回し、恐らく二条から三条の堀が周回しているものと考えられる。台処(台所)は財政を意味する語句でもあり、内部には官衙的な居館が存在するのかもしれない。南側の鳳中学校も郭内とすれば、地形的に、複郭であると考えられる。

 安倍氏鳥海柵清原氏の大鳥井山遺跡とを比較した場合、鳥海柵が一条の堀で区画されているのに対し、大鳥井山遺跡は各丘陵が多重壕で囲まれているうえに、小吉山と大鳥井山とが堀で一体化されるなど、各曲輪の連携が見られ、防御機能が格段に充実していることが分かる。

 これは前九年合戦における戦闘経験が、清原氏の城館構築に大きく反映された結果といえよう。つまり、城郭史的に考察するならば、安倍氏の段階は城館の萌芽期であり、前九年合戦後に、清原氏が城館の構成を充実させたことにより、大形で堅固な大鳥井山遺跡が出来、t後の中世城館にも匹敵するような城館構造が確立されたと評価できよう。言い換えれば、中世城館の形態は、前九年合戦後、清原氏の段階で確立されたともいえるのではないか。

 阿部館山は伝承の安倍貞任の時代というよりも、前九年合戦後の清原氏の時代に構築された可能性が高いと考えられる。安倍貞任伝承があるのは、岩手県内の他の安倍館同様、明確な構築主体の伝承が伝わらない古い時期の城館が、安倍氏伝承に結びつけられたのだと考えたい。

 

 6 延久合戦と阿部館山

 前九年合戦終結の8年後の延久二年(1070)、後三条天皇の征夷完遂の政策をうけて、陸奥源頼俊が、清原貞衡(真衡?)を大将軍として征討軍を編成。奥六郡東方から北方にかけての閉伊七村、衣曾別嶋(宇曾利嶋=下北半島)の荒夷を征討した。いわゆる延久合戦(延久蝦夷合戦)である。征討軍の主力は、仙北三郡と奥六郡を伝領した清原氏の軍事力であるが、実際の戦果については明らかではない。合戦後、清原貞衡は陸奥鎮守府将軍に叙任されており、一定程度の戦果はあったのだろう。しかし陸奥源頼俊は、征討中に陸奥国府の印と正倉の鍵が奪われる事件が発生。急遽、国府へ帰還しなくてはならなかった。

 これは下野守源義家の策謀により、配下の藤原基通に印と鍵を奪わせて、基通が印と鍵を持って義家のもとに出頭させたうえで、朝廷に経緯を報告したのであった。朝廷では同年8月1日付けで源頼俊に召喚し、都に上るよう伝えたが、頼俊は陸奥に居座り、同年12月26日付けで、先の征討で、閉伊七村、衣曾別嶋の荒夷を討ち、多大な戦果を挙げたと弁明した。しかし、朝廷は頼俊に対して行賞はなく、陸奥守を解任し、陸奥で謹慎を命じた。

 つまり、事件の背景には、大和源氏源頼俊と、河内源氏源義家の、中央政界における地位を廻って暗闘があり、源頼俊と清原貞衡は、北方海域から太平洋岸の海運の主導権を得るべく征討にあたったが、これを阻止しようとした源義家の謀略により、源頼俊は失脚させられたのである。

 この時の征討対象域は、奥六郡北部の岩手郡の東から北方にあたる。征討軍主力である清原貞衡が、仙北三郡、奥六郡一円から軍勢を動員して、閉伊七村進出の前線基地として構えた、大規模城館が立地するには、岩手郡、閉伊地方双方を眺望し、双方から視認できる山城として、阿部館山はもっともふさわしい場所に位置していると思う。

 先に示した11世紀後葉から14世紀代までのうち、この場所において、この規模、構造の城館が築かれる可能性が最も高いのは、伝承の安倍貞任の時よりも新しく、閉伊地方から下北半島宇曽利に至る広域を征討対象とした、延久合戦の行われた1070年前後であろう。

 このように、安倍館山は極めて重要な城館跡であり、周囲の斜面部などの縄張調査がまだ完了していないこともある。今後も注意しながら、遺跡の解明を進めていきたい。

 

◇引用文献

盛岡市遺跡の学び館2019年10月『安倍氏最後の拠点 厨川』

室野秀文2013年3月「阿部館山」『岩手考古学第24号』岩手考古学会