城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

一関市東山町 掻引城(駆引城)

先日、大東町摺沢城を見に行った帰り、掻引城に立ち寄りました。

 

長坂千葉氏の城館で、唐梅館は険しい山城。掻引城は平時の居城であったと考えられています。天正18年(1590)唐梅館は、葛西氏に仕える千葉氏一族が参集し、豊臣秀吉の奥羽仕置に抗することを評議したと、葛西真記録に伝えられています。あるいは、掻引城だったともいわれています。麓を流れる砂鉄川は、その名の通り、現在も砂鉄が多く採取される川で、一帯は古代から鉄生産が盛んな地域でした。

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掻引城位置図

 

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住宅地から見上げた曲輪(北側)

 

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掻引城から詰城の唐梅館を見る(中央奥の山)

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掻引城垂直写真(Google

城域の大半が削平されて、住宅地と化しています。それにしても、ずいぶん大掛かりに削ったものです。曲輪の北西部のみが小高く、山谷ふれあい緑地公園となって、残されています。ここに空堀の北西隅や帯曲輪の一部も残されています。曲輪の上から北を見ると、詰城の唐梅館山(H=249.4m)が遠望されます。

 

 

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標柱

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標柱(裏面)

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曲輪の北西隅の現状

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北西隅の空堀

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西側帯曲輪から見る

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西側の空堀

岩手県中世城館跡分布調査報告書(岩手県教育委員会1986)では,現在残る小高い緑地を主郭として略図を描いています。北と西に空堀があり、その南東側、台地先端部にかけて、腰曲輪が数段存在するように作図されていますが、はたして、そのとおりなのでしょうか・・・?

 

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昭和22年の掻引城(米軍撮影:国土地理院Webサイトより)

 上の写真は、1947年11月19日の米軍撮影のものですが、開発前の地形が解ります。これを新旧の写真で比較してみましょう。

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                      下:国土地理院写真に加筆

掻引城新旧写真

これを見ると、現在残る緑地は、下の白黒写真のⅡの北西隅(※印)であり、主郭はその南東部の崖近くに、略円形に区画されたⅠと考えられます。残念ながら、Ⅰは現在住宅地として削り取られて、失われていることが分かります。Ⅱは、Ⅰの南西から西側、北側を取り巻く曲輪で、二の曲輪と考えられます。外側に空堀がめぐらされていたことが読み取られ、北辺の堀の外側には、土塁が構築されていたようです。現在、緑地公園に残る、空堀の曲折部は、この北西隅にあたります。西側空堀の外には、帯曲輪が伴いますが、白黒の米軍写真によれば、これはⅡの北にあるⅢの曲輪が、Ⅱの西側へ延びて囲んだいたものであることが解ります。

つまり、この城はⅠ→Ⅱ→Ⅲの序列であったと考えるのが妥当なところでしょう。現在残るのは、Ⅱの北西部分とその堀、帯曲輪の一部ということになります。

ⅠとⅡの東側斜面には、空堀が延伸されて縦堀になっており、その間には、雛壇状のテラスが構築されていたことが解ります。岩手県宮古市の山口館の発掘調査では、斜面部の雛壇造成エリアでは、テラス毎に鍛冶炉を伴う生産工房が確認されておりますが、砂鉄川に面したこの斜面も、千葉氏配下の工人たちの活動エリアであったのではないでしょうか。発掘調査は行われていないので、確かなことはわかりませんが、遺構からその可能性が考えられます。

掻引城は、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの曲輪を中心に構成された、比較的規模の大きな城館であり、長坂千葉氏の平時の居城であったということは、城の大きさや内容から確かなことと考えられます。

なお、天正18年の千葉一族参集場所となった唐梅館というのは、狭小な山城の唐梅館ではなく、広い曲輪をもつ掻引城だったのではないでしょうか。おそらく唐梅館は山城と居城掻引城の双方をセットにした呼び名であったとも推定され、それがために、どちらに参集したのか、後世明確ではなくなったのだと、想像しています。