城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

遠野市松崎町松崎 真立館(まったつだて)

12月25日(土)遠野市松崎町の真立館を調査した。遠野市博物館学芸員の前川さおり氏の案内で、平泉町役場の八重樫忠郎氏と室野秀文の3人で行った。

調査のきっかけは前川氏のFacebookのフィールドノート(2021年9月17日)の頂部平場の写真であった。平坦地になってはいても、造成は粗野で、縁辺部が丸くなっており、中世後期の城館の平場とは異なるように思えたからだった。前川氏と連絡をとり、館跡の状況を確認すると、堀跡らしいテラスが周回しているということであったので、中世でも比較的古い時代の、単郭周壕型の城館と思われた。そこで後日現地調査することになり、本日の調査実施となった。現地は昨夜来の降雪により、3㎝前後の積雪があった。

松崎町松崎では、本年度、遠野市教育委員会の発掘調査により、宮代Ⅳ遺跡で12世紀後半の経塚が発見されており、平泉藤原氏の時代、この地も平泉文化圏であったことが証明されている(遠野市教育委員会2021)。

今回の真立館は、その北東300mほどのところにある字廻立にあり、標高326m、比高50mの山上にある。南側低地には、猿ヶ石川の旧河道と思われる松崎沼が存在したといわれているところで、沼に面した南斜面は非常に急峻であるが、山頂から北西、南西、南東、北東には尾根が伸びている。猿ヶ石川の対岸段丘上には、平安時代の9・10世紀の官衙的遺跡とされる高瀬Ⅱ遺跡が立地している。

 

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猿ヶ石川対岸から見た真立館と宮代Ⅳ遺跡(経塚)

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遺跡位置図(岩手県教育委員会2016に加筆)

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南から見た真立館 手前の低地が松崎沼の跡

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真立館縄張図(野帳

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頂部平場 自然地形を残した粗野な造成

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東側空堀 堀は埋没が進行し、曲輪縁辺部は丸くなっている。

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北西部空堀コーナー部分

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北東部空堀コーナー部分

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東隣の尾根にある「羽山○見」の石仏

頂部曲輪の規模は南北38m、東西は18m~22mで、全体が瓢箪に近い楕円形である。曲輪には中軸に沿って3つの竪穴建物らしい窪みがある。曲輪内は戦時中の松根油採取のため掘り起こされたらしい穴もあるが、全体に造成が粗野な感じで、自然地形がそのまま活用されているように見受けられる。堀に近い縁辺部は、幅2m内外の犬走状に整形されている。堀は幅8mほどであるが、急斜面に面した南側は幅3mほどのテラスになっている。堀は山側を切り落とし、斜面側へ土塁を盛って、堀を形成している。古代末期の防御性集落や、中世の古い時期の城館によくみられる特徴である。西側中央付近と北西側に土橋が残り、当時からの通路であったと思われる。

曲輪の南西側には尾根が下っているが、ここは数か所で平坦地になり、尾根先端部は、粗野であるも広く造成されている。尾根には6か所ほどの竪穴建物の窪みが見られる。同様の竪穴は南東尾根にも2か所見られる。北西尾根は確認していない。

真立館は単郭周壕型の城館で、曲輪の粗野な造成状況や、土塁を外側に盛る工法から見て、中世前半の鎌倉南北朝期か、やや遡る可能性も考えられる。遺構の内容は、室町・戦国期とは考えにくい。

南西側の宮代Ⅳ遺跡経塚は12世紀後半のものであり、宮代Ⅳ遺跡北東側には松崎観音(南北朝期?)がある。こうした宗教施設との関連も多いに考えられ、遠野における古い時期の城館である可能性が高い城館跡である。

なお、前川氏によれば、ここの字名は「廻立」とのことであり、堀やテラスが周回する構造の廻館(まわりだて・まわったち)が真立に転化した可能性がある。