城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

浄法寺城ー令和3年度第2回二戸市民歴史講座『浄法寺城を歩く』ー 12月5日(日曜日) (現地講座要旨)

 中世の糠部(ぬかのぶ)は、一国に相当するほどの広大な領域でした。郡域は一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸の九つの「戸(へ)」と、南・北・東・西の「門(かど)」の行政区に分かれていました(九戸四門の制)。鎌倉時代、糠部は北条得宗領であり、後に糠部に定着し一族を拡げた南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷(山梨県南巨摩郡南部町)を本領としていました。その一族が、鎌倉時代末期までに、北条氏配下の給主として、糠部の何れかの地に赴任していたと考えられています(新編八戸市史通史編1)。

 浄法寺は糠部の南西部、西門(にしのかど)にあたり、外ヶ浜に向かう奥大道(おくだいどう・おくのおおみち)にも接しています。鎌倉時代初期、武蔵の畠山重忠の子孫が鎌倉を脱出し、日光山を経て、天台寺付近に定着し、浄法寺氏を名乗ったと伝えられています(諸説あります)。二戸市石切所の諏訪前遺跡は、馬淵川沿いの段丘上に営まれた遺跡で、方形の堀を廻らせた居館跡が確認されています。出土陶磁器から、鎌倉時代中頃から後半のもので、北条氏代官の居館と考えられています。浄法寺氏もまた、北条氏配下の給主だった可能性もありますが、鎌倉時代の動向を示す史料がなく、確実なことはわかりません。また、このころの浄法寺氏の居館も、今のところ不明です。

 浄法寺は、八戸~二戸~鹿角を結ぶ八戸街道(鹿角街道)の要衝です。山麓から東南方向に張り出した、段丘を活用しており、先端は安比川に至ります。深い堀で区画された、八幡館、大館、新城館が並び、この西と北にも大きな曲輪が造られています。当時の名称は不明ですが、現在便宜上、西館と北館と呼ばれています。北館が広大な範囲ですが、内部を区画する空堀も確認されていますので、浄法寺を含む安比川流域は、中世には糠部の西門と呼ばれた地域4つぐらいの区画に分かれていた可能性があります。八戸街道は八幡館と、大館・西館との間の堀底を通過しており、浄法寺城は安比川流域支配の拠点城館であり、交通・流通を扼していたことがわかります。

 

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 八幡館北東の神明社のある一郭①は、大手から八幡館に登る坂の途中にあたります。地形をよく見ると、八幡館から独立した馬出であることがわかります。境内東側の安比川に面した場所には、高い土塁が築かれていて、神社社殿の南側へと回り込んでいます。神社参道側には土塁は残っていませんが、境内整備に伴って削平されたとみられ、元は馬出の表側には、半円形に土塁が巡らされていたことでしょう。この外側は安比川に面した崖になっており、堀は省略されていますが、丸馬出と呼んでも差し支えない構えです。土塁の高い個所は、安比川沿いの通行が遮断されていた箇所の真上であり、見張りの櫓が構えられていたと推定されます。馬出は城兵の出撃を援護しつつ、攻めての兵力を分散させて、城の大手などを守る施設です。このすぐ上は八幡館の高地が控えているため、馬出へ侵入を許したとしても、高地から反撃して奪い返しやすい造りになっています。浄法寺城大手口の防御の要になっております。

 八幡館に登る道は、馬出から旧坂を登ったあとも、暫く城主館②にむけて坂を登りますが、右手の高地からの攻撃にさらされているため、寄せ手からは反撃しにくい構造になっています。この坂を登り切ったあたりは、安定した平坦地になっております。この北側の発掘調査では、多数の掘立柱建物跡が重複してみつかっております。代表的なもの二つを資料P に挙げておきましたが、一つは総柱の高床張の会所と考えられるもの、もう一つは、L字形の曲屋風建物で、八戸根城には、少し大きな曲屋風の主殿が復元されておりますので、参考にしてください。館の表向きに配置される内容の建物であり、これより奥(南西側)の平場に城主の常御殿が存在したと考えられます。

 八幡館南東には、城の裏手にあたる、搦手の備えが見られます。八幡館南東の一角は、小さな低い土塁に囲まれていますが、城主居館との間が低みになっており、古い時代には堀切で独立していた可能性があります。この土塁から下には、中腹が階段状に造成されていて、南東からの上り道が曲折して登り、土塁囲みの④の北側に登ります。その途中、③の處が枡形になっており、脇に土塁が残されています。南東側の安比川近くから、この八幡館を見上げると、雛壇造成の地形が、守りの固い要塞として築かれているのが実感できます。

 八幡館と大館、八幡館と西館の間は、深く刻まれた大きな空堀になっており、堀底は浄法寺街道(鹿角街道)が通じています。堀底は緩やかなS字に曲がっていて、見通しが利きにくくなっています。西館と八幡館の最高部との間は、堀の両側斜面にの縦土塁が構えられていて、喰い違い⑤や枡形⑥が構成されています。これは当時街道の通行を監視しながら、ある時には通行を制限した痕跡と考えられます。すなわち。浄法寺城の関所としての一面を物語る遺構です。

 八幡館北側の大館は、南側の西館と、八幡館との間に二重の堀が構えられ、堀の間には⑦、⑧、⑨の小さな曲輪が設けられています。また、北側新城館の南東部大館よりの箇所⑩は一段高くなっていて、この部分は堀で独立している可能性がありますが、そうしますと、大館の三方は、それぞれ二重の空堀が囲むことになり、城内では八幡館に次いで、守りの固い曲輪ということができます。八幡館ほどの密度ではないけれども、重複する掘立柱建物には大形の曲屋風建物もあり、ある時期に本丸になったことがあるのかもしれません。出土陶磁器のなかに鎌倉時代後期ごろの中国青磁碗破片がありますが、大館のうちに、この時代の建物が存在するのかもしれません。今後の発掘調査が待たれます。

 本日は時間の関係で割愛しますが、西館の中からは、工房と考えられる竪穴建物跡が複数見つかっています。中心に大形掘立柱建物も存在し、漆工芸や鉄器生産などの職能民と、これらをまとめ、管理する武士の存在が推定できます。新城館や北館は、遺構の密度が薄くなりますが、家臣屋敷とみられる建物群、馬の墓、内部を区画する空堀が見つかっております。特に北館は広大であり、有事の際には、地域の庶民層の避難場所にもなったことでしょう。

 浄法寺城は糠部の拠点城館の姿をもっともよく伝える遺跡です。本日、城跡全体を廻ることは、時間の関係でかないませんでしたが、資料中の地形図を片手に、皆さんご自身で、広大な城跡を体感してみてください。またいつか、機会がありましたらば、皆さんとともに、二戸・浄法寺の城館跡を歩いてみたいと思います。

※ 掲載資料は二戸市教育委員会提供資料を中心に構成しております。利用にあたっては、著作権法に留意し、無断転載は御遠慮ください。