(2021年5月11日改訂)
文治5年(1189)8月22日、平泉を制圧した源頼朝は、同年9月2日、蝦夷ヶ島(北海道)を目指す藤原泰衡を追い、岩手郡厨川柵(岩手県盛岡市)に向います。同月4日、志波郡(岩手県紫波郡)陣ヶ岡蜂社(紫波町陣ヶ岡)に布陣しました。
この前日(3日)、藤原泰衡は比内(秋田県大館市)の贄柵において、郎従河田次郎の謀反で討たれてしまいました。4日、北陸道から出羽を経て行軍していた比企能員、宇佐見実政らが陣ヶ岡に合流し、鎌倉軍は28万4千騎になりました。9月6日、河田次郎は泰衡の首を携えて、陣ヶ岡に来着し、泰衡の首を差し出しました。和田義盛、畠山重忠は、囚人赤田次郎に首を見せて、藤原泰衡の首に相違ないことを確認しました。源頼朝は、河田次郎を不忠者として斬罪に処し、泰衡の首を晒しました。9月11日、頼朝は志波の高水寺と走湯権現を経て行程25里(16㎞余り)の厨川柵に移動。翌日の12日には岩手郡地頭に工藤行光を任じます。厨川には8日間滞在し、9月19日には、再び平泉に向かいました。
頼朝が布陣した陣ヶ岡は紫波町陣ヶ岡にその遺跡があります。JR東北本線古館駅の葯1.5㎞南西の地点、国土地理院の1:25000地形図で見ると標高135.6mの三角点のある丘で、西洋の盾を伏せたような、なだらかな地形です。
また、時代は下って、戦国時代末の天正16年(1588)7月、南部信直が志和郡に侵攻し、陣ケ岡に布陣。ここから斯波氏の高水寺城を攻め、7月下旬には、斯波氏は追われ、滅亡しました。
頼朝が布陣した陣ヶ岡は紫波町陣ヶ岡にその遺跡があります。JR東北本線古館駅の葯1.5㎞南西の地点、国土地理院の1:25000地形図で見ると標高135.6mの三角点のある丘で、西洋の盾を伏せたような、なだらかな地形です。
丘の上には蜂神社(はちじんじゃ)があり、丘の中腹には空堀がめぐらされております。現状では丘の東側は畑や果樹園になっているため、堀は不明瞭ですが、西側の山林になっているところには幅6m~8m、深さは1m~2mの浅い感じの空堀が残っています。戦後の昭和23年に米軍が撮影した空中写真を拡大してみると、東側にも堀のラインが所どころ認められ、堀で囲まれたその範囲は南北430m、東西は220mほどになります。蜂神社から西側の方へ下っていくと、木製の橋が架けられていて、「八門遁甲の堀」と標柱が立てられています。この堀が何時の時代の構築物なのかはっきりしませんが、自然地形に沿ったプランでめぐっていることから見れば、案外文治五年の合戦時まで遡るのかも知れません。もしもそうであれば大変貴重な陣城の遺構になります。
この堀を西に渡ってしばらく進むと、周囲を堤で囲まれた園池があり、日の輪、月の輪とよばれる中島が造られています。地元では藤原秀衡が構築したと伝えられています。
陣ヶ岡北東側少し離れた場所には藤原泰衡首洗い井戸がありますが、これは、戦後新しく造られたものです。古館村勢要覧によれば、陣ケ岡の南南西に数百メートル離れて、首洗池が存在しました。現在は、圃場整備で埋没して、見ることができません。
陣ヶ岡空中写真(1948米軍撮影、国土地理院空中写真閲覧サービス)
堀が山林で隠れているところを水色の線で表示してあります。線のないところをよく見ていただくと、堀のラインが見えてきます。この当時は東側の堀も、所々残存していたようです。現在東半分は堀が埋められて、畑や果樹園になっています。西側(左)には日の輪、月の輪の園池跡も鮮明に見えています。
※ 図の複製・転載は御遠慮ください
陣ヶ岡西側の空堀
藤原泰衡首洗い井戸(※これは観光のため新しく造られたもの)
実際の首洗池は下の写真を参照してください(1948年)
陣ケ岡と首洗池(1948年) 国土地理院Webサイトより