城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

安倍正任の黒沢尻柵擬定地と中世の黒沢尻館跡 北上市川岸 安倍舘公園

 北上駅東口からほど近い場所の北上川近くに安倍館公園があります。現在では一面区画整理された住宅地ですが、区画整理以前には、東西180m、南北120mほどの範囲を堀跡がめぐる黒沢尻館跡が残されていたそうです。現地をあるいてみると、区画整理された現在でも、館跡の存在した場所は周囲よりも幾分小高くなっていますが、当時の地形が良く残るのは、この安倍舘公園だけになりました。

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 公園にある案内図

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 安倍舘公園の堀跡 中世の黒沢尻氏居館の黒沢尻館の堀です

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 堀跡

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 黒沢尻柵跡の説明板

 

 現在の安倍舘公園は黒沢尻館跡の西端にあたります。区画整理にあたり、この東側の数カ所で発掘調査が実施され、中世の竪穴建物跡、柱穴群、土坑、集石、堀跡が発見されました。堀の中から室町時代中期(15世紀)の天目茶碗が完全な形で出土しています。天目茶碗は表面が被熱しているので、火災にあっている可能性があります。

 永享7年(1435)から翌年の夏にかけて、和賀氏の内紛に端を発した和賀、稗貫合戦が起こりました。「稗貫状」によれば、和賀氏と須々孫氏の争いでは、黒沢尻氏が和賀庶流の須々孫氏に味方し、隣郡の稗貫出羽守を頼んで、永享7年11月に和賀小次郎の飯豊城(北上市飯豊)を攻撃したため、戦乱が和賀郡、稗貫郡に拡大しました。このため南部長安(八戸根城主)らを中心とする北奥各地の軍勢が不来方城(岩手県盛岡市)に集まり、稗貫氏を鎮圧に向かいます。しかし風雪に遮られ、不来方城に待機。翌年早春に斯波御所(斯波郡高水寺城主)を大将軍として稗貫郡の寺林城、十八ヶ城(さかりがじょう)、湯ノ館を攻撃。夏まで合戦が続き、奥州探題大崎持詮が出馬。稗貫出羽守が降伏し、大乱が終結しました。

 飯豊城から西2㎞の笹間館(花巻市笹間)の発掘調査では、この時の戦乱による大規模な火災の痕跡が見つかっており、黒沢尻館も戦場となった可能性があります。黒沢尻氏のその後についてはよくわかりません。

 ところで、現地の説明板にもありますとおり、ここは康平5年(1062)前九年合戦の戦場となった、黒沢尻五郎正任(安倍正任)の黒沢尻柵跡という伝承があります。前述の発掘調査では、残念ながら安倍氏の柵跡という確証は得られていません。ただ、黒沢尻という地名はまぎれもなくこの付近を指しており、黒沢尻の川湊に接したこの付近に黒沢尻柵が存在したのではないかと考えられております。

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黒沢尻港の図

 

 黒沢尻館の堀や区画を活用して、江戸時代には盛岡藩の御蔵や舟の繕い所などがありました。御蔵奉行所、北御蔵、南御蔵、東御蔵のある場所が黒沢尻館の東半分。西に御役屋、南にやや離れて造船場があり、ここも堀と川で囲まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

青森県八戸市 史跡根城跡(2017年・2018年)

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 根城南部氏と根城

 東北地方の南部氏といえば、江戸時代の盛岡藩主の南部氏を思い浮かべますが、盛岡南部氏は戦国時代の南部氏一族の三戸南部氏(さんのへなんぶし)を継承する形で成立した家です。元々甲斐の国(山梨県)南部郷を出自とする南部氏は、武田氏、秋山氏、小笠原氏と祖先を同じくする甲斐源氏であり、鎌倉時代末期ごろまでに奥州に所領を持つようになりました。鎌倉幕府滅亡後、建武政権の国代として南部師行が糠部(ぬかのぶ:現在の岩手県北部から青森県東部)の八戸に入りました。師行の子孫は八戸の根城を拠点とし、南北朝室町時代中期にかけて、糠部を代表する領主として、八戸氏を名乗っていました。中世の八戸氏は江戸時代八戸藩主の南部氏と混同しやすいため、根城南部氏と呼ばれています。戦国時代後半の16世紀に入ると、根城南部氏よりも三戸南部氏や九戸氏が大きく台頭しましたが、根城南部氏は江戸時代の寛永⒋年(1627)に遠野へ領地替えとなるまで、根城を居城としておりました。青森県八戸に所在する根城跡は国史跡に指定されており、長年の発掘調査で解明された本丸の主殿や竪穴建物、厩、門などの遺構が復元整備されて、戦国時代糠部の拠点城館を体感しながら学ぶことができる史跡になっています。

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 旧八戸城東門

 史跡根城の東側、八戸市博物館の前に移築された門です。江戸時代八戸城の東門で、根城から八戸城へ移築された門と伝えられているそうです。向かって右端の柱が風食が進んでいて、古い部材らしく思えました。この門を潜ると根城の跡に入ります。

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 根城の三番堀

 根城の一番東側の空堀で、博物館と根城東善寺館の間にあります。右側木立の向こう側に博物館があります。

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 根城跡の全体図(現地の案内板)

 馬淵川南岸の河岸段丘上に立地しています。西側を西ノ沢、東側にも沢が入り、全体としては南から北へ傾斜した台地に造られています。段丘崖添いの幾分高まりの地形に本丸、中館、東善寺館が並び、沢を活用した空堀で区画されています。東善寺は根城の祈祷を行っていた寺だそうです。南側の岡前館は南に行くほど高くなっており、外側を幅の広い三番堀で区画しています。南端の最も高いところには沢里館があります。本丸、中館、東善寺館の下には下町という城下町がありました。

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 根城の推定復元図(奥が東)                (現地の案内板)

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 中館の復元された建物

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中館の建物内部

 

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 中館の空堀

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 中館にある本丸整備状況の模型(奥が南)

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 中館から見た本丸

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 中館から見た本丸建物

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 本丸大手の虎口

 中館西側の一段低い平場から空堀を橋で渡り、Y字形に二手に分かれて本丸へ登ります。画面奥は左手に進んだところの棟門、右手(写真右側)には二柱門が構えられています。

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 主殿

 

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 主殿

 

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 奥の建物は主殿、手前は常御殿を平面表示したもの、左手の茅葺き屋根は竪穴建物

 

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 囲炉裏のある詰の間

 

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 主殿広間での正月十一日の儀式 右列奥の人物が根城南部家当主、鎧武者は年男、居並ぶのは重臣たち。お膳は生大根や大豆など質素な戦陣食と濁り酒。

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鎧武者の鎧のモデルはこの胴丸(岡山県林原美術館所蔵)

 

 

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 下厩

 

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 主殿南西側にある大型の竪穴建物

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 竪穴建物内部 甲冑や弓などの武具の修理を行う工房として復元されています。

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 本丸大手虎口近くの小型の竪穴建物

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 この中は味噌部屋でしょうか?

 

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 本丸西側の冠木門 

 

 見学を終えて

 南部氏の城を知るにはまずこの根城を見学すべきだと思いました。 

 江戸時代の城とは異なる戦国時代の城の復元は様々な困難があったと思いますが、関係者の発掘調査から調査報告書作成、復元の検討、史跡整備公開までに至る粘り強いお仕事ぶりが見えるようでした。

 本丸門を入ったところの受付では、職員の方が笑顔で迎えていただき、帰るときも笑顔で挨拶してくれて、本当に気持ちよく、充実した時間過すことができました。感謝です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

養雲寺の山門

 

平成26年に訪問した宮城県登米市の養雲寺山門です。説明板によると、建築構造(架構方法)から江戸時代初期以前の門とのことで、この地に存在した太白山永明寺の山門であったものを、そのまま残した門だそうです。現在登米市の指定文化財になっています。屋根は現在銅板で葺かれていますが、元は茅葺きでした。登米市の懐古館にはその当時の写真が展示されています。また、現地の説明板には明記されていませんでしたが、この門は元々葛西氏の寺池城(江戸時代仙台藩登米要害になった城)の門を移築したという伝承があるようです。上層部分が当時の形をどのくらい残しているのかよく分かりませんが、戦国時代末期ごろの城の櫓門だとしても、頷けるような建築だと思います。上層の櫓の高さを縮めて山門に改造したものでしょうか?伝承が正しければ、戦国時代末期の城館の遺構として、かなり重要な建築物ではないでしょうか。

 

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陣ヶ岡 ―文治五年(1189)奥州合戦源頼朝陣ー

(2021年5月11日改訂)

 文治5年(1189)8月22日、平泉を制圧した源頼朝は、同年9月2日、蝦夷ヶ島(北海道)を目指す藤原泰衡を追い、岩手郡厨川柵(岩手県盛岡市)に向います。同月4日、志波郡(岩手県紫波郡)陣ヶ岡蜂社(紫波町陣ヶ岡)に布陣しました。

 この前日(3日)、藤原泰衡は比内(秋田県大館市)の贄柵において、郎従河田次郎の謀反で討たれてしまいました。4日、北陸道から出羽を経て行軍していた比企能員、宇佐見実政らが陣ヶ岡に合流し、鎌倉軍は28万4千騎になりました。9月6日、河田次郎は泰衡の首を携えて、陣ヶ岡に来着し、泰衡の首を差し出しました。和田義盛畠山重忠は、囚人赤田次郎に首を見せて、藤原泰衡の首に相違ないことを確認しました。源頼朝は、河田次郎を不忠者として斬罪に処し、泰衡の首を晒しました。9月11日、頼朝は志波の高水寺と走湯権現を経て行程25里(16㎞余り)の厨川柵に移動。翌日の12日には岩手郡地頭に工藤行光を任じます。厨川には8日間滞在し、9月19日には、再び平泉に向かいました。

 頼朝が布陣した陣ヶ岡は紫波町陣ヶ岡にその遺跡があります。JR東北本線古館駅の葯1.5㎞南西の地点、国土地理院の1:25000地形図で見ると標高135.6mの三角点のある丘で、西洋の盾を伏せたような、なだらかな地形です。

 また、時代は下って、戦国時代末の天正16年(1588)7月、南部信直が志和郡に侵攻し、陣ケ岡に布陣。ここから斯波氏の高水寺城を攻め、7月下旬には、斯波氏は追われ、滅亡しました。

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陣ケ岡(東から)

 頼朝が布陣した陣ヶ岡は紫波町陣ヶ岡にその遺跡があります。JR東北本線古館駅の葯1.5㎞南西の地点、国土地理院の1:25000地形図で見ると標高135.6mの三角点のある丘で、西洋の盾を伏せたような、なだらかな地形です。

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陣ヶ岡(西から)

 

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位置図(国土地理院

 丘の上には蜂神社(はちじんじゃ)があり、丘の中腹には空堀がめぐらされております。現状では丘の東側は畑や果樹園になっているため、堀は不明瞭ですが、西側の山林になっているところには幅6m~8m、深さは1m~2mの浅い感じの空堀が残っています。戦後の昭和23年に米軍が撮影した空中写真を拡大してみると、東側にも堀のラインが所どころ認められ、堀で囲まれたその範囲は南北430m、東西は220mほどになります。蜂神社から西側の方へ下っていくと、木製の橋が架けられていて、「八門遁甲の堀」と標柱が立てられています。この堀が何時の時代の構築物なのかはっきりしませんが、自然地形に沿ったプランでめぐっていることから見れば、案外文治五年の合戦時まで遡るのかも知れません。もしもそうであれば大変貴重な陣城の遺構になります。

 この堀を西に渡ってしばらく進むと、周囲を堤で囲まれた園池があり、日の輪、月の輪とよばれる中島が造られています。地元では藤原秀衡が構築したと伝えられています。

 陣ヶ岡北東側少し離れた場所には藤原泰衡首洗い井戸がありますが、これは、戦後新しく造られたものです。古館村勢要覧によれば、陣ケ岡の南南西に数百メートル離れて、首洗池が存在しました。現在は、圃場整備で埋没して、見ることができません。

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 陣ヶ岡空中写真(1948米軍撮影、国土地理院空中写真閲覧サービス)

 堀が山林で隠れているところを水色の線で表示してあります。線のないところをよく見ていただくと、堀のラインが見えてきます。この当時は東側の堀も、所々残存していたようです。現在東半分は堀が埋められて、畑や果樹園になっています。西側(左)には日の輪、月の輪の園池跡も鮮明に見えています。

 

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          ※ 図の複製・転載は御遠慮ください

 

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 陣ヶ岡西側の空堀

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 藤原泰衡首洗い井戸(※これは観光のため新しく造られたもの)

 実際の首洗池は下の写真を参照してください(1948年)

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 陣ケ岡と首洗池(1948年)          国土地理院Webサイトより

 

 

 

波宇志別神社に行きました

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6月23日金曜日

週休日だったのでドライブして、横手市の波宇志別神社まで行ってきました。杉木立の幽玄な境内には 、室町時代末期の重要文化財波宇志別神社神楽殿が残されています。直径52㎝の太い当時の柱がどっしりと礎石に据え付けられ、こけら葺きの両流れ造りの社殿を支えていました。重厚で見応えのある建物で大いに感動しました。基壇前面の石積みも古そうな石積みです。手前の池には中島もありました。以前、大仙市の古四王神社にも行きましたが、こちらも優れた建築の重要文化財室町時代後期の本殿でしたが、どちらの建物もよくぞ今日まで残されていたなと思いました。またいつか見に来たいですね。

阿部館山登頂記 安倍貞任伝説の山

 

【登頂日 2012年4月15日】

 阿部館山は岩手県盛岡市下閉伊郡岩泉町の境にある標高1221mの山です。周囲の斜面は急峻で谷も深いのですが、山頂付近は馬の放牧ができそうなほどなだらかな地形です。その昔、安倍貞任(あべのさだとう)が立て籠もったと伝承される山で、山頂の周囲には雛壇状の地形が幾重にも巡っています。このなかには堀の埋没した部分も含まれると思います。古い時代の城館跡であることはまちがいありません。この日は山城仲間二人(私よりも年長です)に同行していただき、なんとか無事に登頂し、帰ってくることができました。お二人に大変感謝しています。当日は快晴で遠方まで眺望が開け、北東側岩泉町小本の谷の彼方に、太平洋の水平線がかすかに望まれました。

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北東側から見た阿部館山

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阿部館山の位置(国土地理院HP)

 

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山頂北西側の御金蔵岩

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東側椴松沢から見上げた阿部館山、鞍部の左側(主郭側)に堀の窪みが見える

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山頂北側の様子(西半)

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山頂北側(東半)北側の切岸とテラス(左下へ伸びています)

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東斜面の雛壇がかすかに見えます。埋没が進行していますので、テラスは全て外側へ傾斜しております。

遠景に見えるのは北上山地最高峰の早池峰山です。

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山頂から見た岩手山

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山頂から見た早池峰山

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山頂から見た岩泉町小本方面、遠くかすかに太平洋の水平線(谷の彼方)

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遠くに区界峠近くの岩神山の鉄塔が見えます。

写真手前の笹が左右に密生しているのは、曲輪の切岸(人工の法面)です。

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山頂の曲輪はこのように自然の起伏をそのまま残した状態で、この周囲に人工の切り岸(法面)があり、その下にテラス状の平場が廻っています。縁辺部の土砂の流失や低いところへの流入と埋没が進んでいるため、曲輪の縁辺はシャープではなく、丸くなだらか。斜面部のテラス状平坦地も平坦ではなく、外側へ傾斜しています。もっとも、この日は70㎝ほど積雪がありましたから、雪上からの観察です。夏場は笹が密生しているため地形は見通せません。

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北側の切岸

この辺りは人工の地形を明瞭に観察できます。この直下が北側の堀跡になりますが、かなり埋没しているようです。こうした切岸やテラス、堀は、経年変化で埋没が進んだ場合、近くからはわかりにくくても、日光のコントラストにより、遠くからも起伏が読み取れる場合があります(冒頭の写真参照)。

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北西部の御金蔵岩と、岩の手前を右斜め下に降る堀の地形(北から)

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山頂の西側斜面

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北東側切岸(西から)

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東南側の切岸 なだらかに丸くなっています。

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上から見た東側のテラス(堀跡)

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南側にやや下がった場所に、このような沢か溝のような地形がありました。

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頂上北側に少し離れて存在する出丸のような山(南から)

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北側出丸のような山を北から見る

中腹にテラスが廻り、手前には割と広い平坦な地形があります。雪面にはスノーモビルの走行跡が残っていました。

 

 この日、山頂には数十人の登山の団体。中腹にはスノーモビルやスキーを楽む男女が何組かいて、以外にも登山者が多いのに驚きました。

 

※ この城館跡の詳細については、地元の専門雑誌(『岩手考古学第24号』岩手考古学会2013年3月30日)に投稿しておりますので、関心のある方は是非御参照ください。