2018年10月13日(土)
木々が色づきはじめ、好天にめぐまれた本日。青森県三戸郡三戸町の三戸城跡(さんのへじょうあと)で、三戸町教育員会の発掘調査現地見学会が開かれました。三戸城は馬淵川と熊原川合流点の城山に築かれた、戦国時代三戸南部氏の山城です。天文8年(1539)南部町の聖寿寺館が火災で焼失し、永禄年間(1558~1570)に南部晴政がこの山に居城を移したといわれています。後の盛岡藩主家は、南部信直を祖とする盛岡南部氏で、三戸南部氏を継承した家になります。この城は盛岡城築城後も三戸御古城として残され、盛岡藩政下では貞享年間(1684~1688)まで城代が置かれておりました。今年の調査は本丸の表門にあたる大御門跡で、その名に相応しい大きな礎石が並んで確認されました。
北側から見た大御門の礎石
門西側の土塁基底部の説明
東側土塁(石垣)上から見た大御門礎石
西側から見た大御門礎石
門は扉の左右に5個ずつの礎石で構成されているそうですが、後世に抜き取られた礎石もあるそうです。右奥の直方体の石材は石垣の角石。
大御門内側の雨落ち溝
西側土塁と門の西側礎石(南から)、右奥の石材は東側土塁の石垣から崩された石材。
門の東側土塁は石垣が構築されていますが、西側土塁は石垣のない土塁だそうです。でも、何でこのように左右アンバランスに築いたのでしょうか?。