城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

栗谷川城(厨川柵・嫗戸柵擬定地)

1 栗谷川城(安倍館遺跡)

 栗谷川城は、岩手県盛岡市安倍館町(あべだてちょう)・上堂(かみどう)一丁目に所在する城館跡で、北上川西岸の比高22mの台地上にあります。西側は木賊川(とくさがわ)の低地になって、北の上堂から南の館坂に向かって長く張り出した台地上に曲輪を連ねる、連郭式の城です。ここには室町時代から戦国時代、工藤氏(厨川氏)の居城栗谷川城が存在しましたが、豊臣秀吉の奥羽仕置(天正18年~同19年:1590~1591)の後、天正20年(文禄元年:1592)に破却されました。現在は中央の本丸、中館、北館の堀がよく残されているほか、北側の外館と、南側の南館は一段高い地形で残り、なんとか輪郭がわかります。北端の勾当館や西側の帯曲輪は市街化が著しく、輪郭をたどりにくくなっています。

 また、この城跡は古くから安倍館(あべだて)の名で親しまれており、平安時代後期の前九年合戦の古戦場厨川柵と嫗戸柵という伝承もあって、安倍氏が滅亡した柵跡としても有名な場所です。その当否はまだはっきりしませんが、栗谷川城跡は市街地の中にありながら中世の城館を体感できる場所として、貴重な存在ではないでしょうか。

f:id:hm-yamaneko:20181015231206j:plain

栗谷川古城図の写し      (盛岡市遺跡の学び館パンフレット:安倍館遺跡) 

※この絵図の原本は、もりおか歴史文化館に所蔵されています。

 

2 安倍氏と前九年合戦

 平安時代の中~後期、北上川中流域の胆沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手の諸郡は奥六郡(おくろくぐん)と呼ばれ、陸奥鎮守府の置かれた城柵の胆沢城(延暦21年:西暦802年建置:岩手県奥州市水沢所在)の管轄域でした。その胆沢城の在庁官人として現地登用された豪族の一人が安倍氏でした。平安時代の中ごろには、陸奥守や鎮守府将軍などは直接現地に赴くことは稀になり、国の役所の実務は、官人(役人)となった地方豪族たちに任されるようになりました。安倍氏はもともとこの地方の豪族であったとする説もありますが、近年は中央の貴族安倍氏一族から東北地方に下った人物がいて、現地豪族と姻戚関係を結び土着したとする説が有力になってきております。安倍氏鎮守府在庁官人として実務にあたりながら、しだいにその地位を高めて、陸奥鎮守府在庁官人を代表者にまで、成長しました。後に前九年合戦で陸奥源頼義と対立した安倍頼良(後に頼時と改名)の父安倍忠良(忠好)は陸奥権守(むつのごんのかみ:次官)に任じられたとされています。忠良の息子の頼良はその基盤を受け継ぎ、奥六郡各地に一族を配置し、北上川両岸地域を影響下に置きました。さらに、陸奥国多賀城の有力官人、藤原経清亘理郡司)や平永衡伊具郡司)に娘を嫁がせて縁戚となりました。すると安倍氏は衣川以南の磐井郡にまで進出しはじめ、陸奥国府と軋轢を生じ、前九年合戦へと向かいました。 

 合戦は安倍氏優勢のうちに推移しましたが、康平五年(1062)出羽の清原氏が源氏軍に合流すると形成は逆転し、安倍氏は小松柵、石坂柵(ともに一関市)、衣川関(平泉町奥州市衣川)、琵琶柵(衣川)、鳥海柵(胆沢郡金ヶ崎町)と敗退し、9月日には源頼義清原武則鳥海柵にはいります。続いて黒沢尻柵(北上市)、鶴脛柵(奥州市江刺区)、比与鳥柵(奥州市江刺区〜北上市)が陥落し、9月15日には厨川柵に向かい、同日夕刻に厨川柵、嫗戸柵を包囲しましました。厨川柵、嫗戸柵は二面が川に面し、西北には大きな沢があり、河岸は三丈有余(9m以上)の急崖になっており、登ることは困難。川と柵の間には隍(溝)を掘り、底には多くの刃を逆立て、鉄(撒菱)を撒いて防備を固めていました。櫓の上には士気の高い兵士がいて、終日監視を怠らず、近づくものには刀や鉾で応戦し、遠くにいる兵には弩を飛ばして攻撃しました。高楼には綺麗に着飾った女たちが歌い舞いながら、官軍を大いに挑発したため、源頼義はこれを深く憎みました。翌16日、終日合戦が続き、安倍氏は石や積弩を乱発して必死に抵抗し、官軍の死者は増すばかりでした。17日、頼義は付近の村落を壊して運び、溝に積み上げて、萱草を積み上げて、神火としてこれに火を放ち、火攻めにしました。火は強風にあおられて柵や櫓に刺さった矢羽根に燃え移り、柵はたちまち炎と煙に包まれました。柵内数千人の男女は泣き叫び、生き地獄と化しました。清原武則は一計を案じ、囲みの一方を解いて、中の人々を外に出しました。城内の者たちはたちまち戦意を失い、戦火を逃れようと脱出を試みます。官軍は横から攻めて、ほしいままに打ち取りました。追い詰められた人々は川に身を投げ、あるいは自ら首を刎ねて自刃しました。貞任は奮戦しましたが鉾で刺されて重傷を負い、6人がかりの大楯に載せられて頼義の面前に引き出されましたが、頼義に一面して果てました。藤原経清藤原清衡の父)は捕縛されて頼義の前に引き出されると、頼義はその罪を咎め、鈍刀で経清の首を引き、時間をかけて首を落としました。安倍宗任は沼地に隠れていましたが後日投降。家任は出羽の清原氏一族の大鳥井太郎頼任のもとに逃れていましたが、後に投降しました。この合戦の結果、安倍貞任藤原経清の首は京へ移送されて獄門に懸けられ、安倍宗任らは伊予国を経て太宰府に流されます。清原武則陸奥鎮守府将軍に、源頼義伊予国司に任じられました。

 

3  安倍氏・厨川柵伝承と厨川の遺跡

 安倍氏の本拠地は衣川北岸地域と考えられてきましたが、近年は胆沢川北岸の鳥海柵(とのみのさく:胆沢郡金ヶ崎町)と考えられております。鳥海三郎宗任の柵とされています。北上市の黒沢尻には黒沢尻五郎正任の黒沢尻柵。岩手郡の厨川には厨川次郎貞任が拠点の厨川柵と嫗戸柵を構えていました。

 厨川柵は、明治・大正期から、盛岡市天昌寺町の里館遺跡(さだていせき)とされてきましたが、ここでは11世紀の明確な遺構や土器などは確認されておらず、12世紀の城館外郭施設と考えられる、大溝と掘立柱建物跡、竪穴建物跡、14世紀から16世紀の城館跡の遺構から、陶磁器や貨幣が出土し、掘立柱建物跡や竪穴建物跡、堀跡が確認されております。この遺跡は、平泉藤原氏に関連する館であり、中世工藤氏の厨川館と考えられる城館跡です。

 安倍館が、いつ頃から安倍氏の柵と考えられてきたのかは、定かではありませんが、江戸時代の正保年間(1644〜1647)に描かれた、「南部領惣国絵図」には、栗谷川古城の地を「阿倍(安倍)貞任宗任陣場」と記していることから、江戸時代初期には、この場所が厨川柵と伝承されていたことがわかります。その後、寛文8年(1668)の栗谷川古城図には、雫石川対岸の太田方八丁(古代城柵の志波城跡)を、「八幡殿陣場」と記し、栗谷川古城とともに前九年合戦の遺跡として記録されています。八幡殿は八幡太郎義家、すなわち、源頼義の嫡子、源義家のことです。江戸時代盛岡藩主の南部氏も、甲斐源氏の末裔であり、武田氏、小笠原氏、秋山氏、佐竹氏と祖先は同じです。南部氏もまた、栗谷川古城、太田方八丁遺跡ともに、祖先の偉業の地として顕彰しました。

 一方、明治・大正から昭和の初めには、近代歴史学の視座から研究が行われました。歴史学者の吉田東伍・岡部精一・菅野儀之助は、安倍館の遺構と地形から、安倍館そのものは中世工藤氏の城館であるとし、天昌寺の里館遺跡(吉田・菅野)や、盛岡駅北の新田町付近(岡部)が厨川柵ではないかと主張しました。また、博物学民俗学者の伊能嘉矩(いのうかのり)は、嫗戸を「ウベ」・「ウヘ」と読み、アイヌ語の「斧のように切り立った崖」を意味する「ウエン・コタン」との関連性を指摘。地形や地名から安倍館付近が嫗戸柵ではないかと考察しました。しかし、それでもなお、安倍館を安倍氏の厨川柵跡、前九年合戦最後の戦場としての伝承は、根強く残りました。

 大正の末から昭和の初めにかけて、岩手郡厨川村と盛岡市の合併協議においては、合併条件の一つとして、盛岡市による安倍館の公園整備が決定されました。昭和6年(1931)、本丸の厨川八幡宮が再興され、盛大な祭礼が行われました。

 

f:id:hm-yamaneko:20181021012134j:plain

栗谷川古城(左上)と方八丁八幡殿陣場(右下) (遺跡の学び館リーフレット

f:id:hm-yamaneko:20181021005311j:plain

 厨川柵・嫗戸柵擬定地と周辺遺跡   (盛岡市遺跡の学び館リーフレット

 昭和55年度(1980)以後、大館町遺跡、大新町遺跡をはじめとする厨川地域の埋蔵文化財調査が、盛岡市教育委員会により実施されました。安倍館遺跡、里館遺跡の発掘調査では、中世工藤氏の城館であること。里館遺跡には、12世紀から14世紀に至る遺構遺物もあり、12世紀は平泉藤原氏関連の城館。13世紀以後は厨川工藤氏の城館と考えられました。また、里館遺跡の西方にある稲荷町遺跡でも、12世紀の掘立柱建物群と堀の存在が確認されております。

 大新町遺跡、小屋塚遺跡では11世紀の掘立柱建物跡や竪穴建物跡。大館町遺跡から大新町遺跡にかけては、11世紀~12世紀の大溝が確認されています。これらの遺構・遺物は、この遺跡が安倍氏関連の遺跡である可能性を秘めています。

 平成26年から27年にかけて、盛岡市西青山一丁目の赤袰遺跡(あかほろいせき)で、11世紀の竪穴建物跡、土器を焼いた窯跡、掘立柱建物跡が調査されました(盛岡市教育委員会2018)。発見された土器は素焼きの小皿、坏、高台付坏などが主体で、大新町遺跡や小屋塚遺跡、鳥海柵跡(金ケ崎町)や大釜館遺跡(滝沢市)で出土している土器と酷似しています。厨川柵、嫗戸柵などに供給した土器生産遺跡と考えられ、安倍氏の柵関連遺跡として注目されています(盛岡市教育委員会2018)。このほか、北西部の西青山三丁目の境橋遺跡、南西部の稲荷町遺跡、南東部の宿田(しゅくだ)遺跡、北東部の上堂頭(かみどうがしら)遺跡では11世紀の土器が出土しており、上堂頭遺跡では 、仏堂か社殿と推定される掘立柱建物跡が確認されています。

 以上の発掘調査成果から、安倍氏の厨川柵・嫗戸柵は、赤袰遺跡、大館町、大新町、小屋塚遺跡から、安倍館遺跡付近までの間に所在したことは、確かなようです。今後の発掘調査によって各遺跡・遺構の関連を明らかにし、厨川柵・嫗戸柵の実像究明が待たれます。 

   

4 工藤氏と栗谷川城

 工藤氏は藤原南家武智麻呂の流れをくみ、甲斐国巨摩郡八田牧に居住していました。文治5年(1189)源頼朝の奥州攻めに工藤行光が従軍して戦功をあげ、岩手郡を拝領して郡地頭になりました。工藤氏は岩手殿とよばれたと伝えられています。実際に工藤氏が厨川に定住した年は定かではありませんが、吾妻鏡建長8年6月2日の条に、奥大道沿いに夜討・強盗が頻発したため、沿線の郡地頭らに、取り締まり強化を命じたことが記されています。この中に岩手左衛門太郎、岩手次郎が見えており、工藤氏の人々と考えられています。後に岩手郡地頭職は北条氏へと移ります。工藤氏一族は北条得宗家被官であり、得宗家地頭代として赴任していました。岩手郡の工藤氏も、岩手郡厨川の代官として存続したと考えられています。

 元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅ぶと、岩手郡厨川には工藤氏が居住。建武元年(1334)川東の仁王郷(盛岡市内丸付近)では、鎌倉時代得宗家被官であった南条清時と後藤基泰が、所領を廻って争いを起こしていました。彼らは鎌倉時代末までに、岩手郡中野郷(現在の盛岡市中心部のうち、厨川を除く北上川両岸)に、北条氏の代官として赴任していた可能性があります。吉田東伍は大日本地名辞書の中で、南条時光(清時の父)を、室町時代不来方(こずかた=仁王郷付近)の領主福士氏の祖先と推定しています。奥南落穂集には、工藤氏は元弘の乱で倒幕側につき、南北朝期の内乱には北畠顕家に従ったと記されています。南北朝合一(1391)までに、岩手郡の川東には河村氏が入り、仁王郷を含む不来方には福士氏、岩手郡厨川には工藤氏、岩手郡西部には滴石氏(戸沢氏)が入っていました。南の志和郡には、鎌倉時代から足利氏一族である斯波氏(しばし)が居住していました。

 工藤氏の居住した厨川館は、発掘調査成果からみて、盛岡市天昌寺町・北天昌寺町の里館遺跡と考えられます。雫石川北岸段丘上に立地する、この遺跡の西部には、12世紀の平泉藤原氏、または藤原氏一族の樋爪氏に関係する城館が存在したとみられ、そこを活用して、工藤氏の館が構えられたと推定されます。この城館は14世紀から16世紀に存続しており、後述する栗谷川城よりも古いことが判明しています。

 栗谷川城は里館の北東800mから900m、北上川西岸の高い台地上に立地し、南側はもちろんの事、里館からは死角となる、北側や東側の地域も広く眺望できます。北上川沿いの道が城内を通過し、鹿角街道にも接しています。発掘調査では15世紀から16世紀末までの遺構遺物が確認されていますが、16世紀半ばから後半の時期が主体であると考えられます。つまり、栗谷川城は、里館の厨川館よりも新しく築かれた、新城であることになります。この時期、志和郡高水寺城の斯波氏(斯波御所)の勢力が岩手郡に深く及んでおり、南部氏や九戸氏など、北の勢力も岩手郡進出を図っておりました。栗谷川城築城は、斯波氏の北に対する備えとして、構築された城であったと考えられます。

f:id:hm-yamaneko:20181015231509j:plain

 栗谷川城縄張復元図               (盛岡市遺跡の学び館)

 現在の地形図に城館の輪郭を投影したもの。

f:id:hm-yamaneko:20181015233234j:plain

本丸西側の堀

柵で囲まれているのは安倍館七不思議のひとつ「片羽の葦」です。

f:id:hm-yamaneko:20181015233312j:plain

 本丸南西角部分

f:id:hm-yamaneko:20181015233351j:plain

本丸南側の堀 右側が中館

f:id:hm-yamaneko:20181020141650j:plain

本丸北東部の厨川八幡宮

江戸時代寛文八年の絵図には八幡宮が表記されています。

f:id:hm-yamaneko:20181020141352j:plain

本丸北側の虎口(こぐち)

 向かって右側は土塁が突き出しています。北館から一旦堀底に降りて、この写真の坂道を上り、左に入ると本丸の内部です。坂の上には門が構えられていたことでしょう。

f:id:hm-yamaneko:20181020141504j:plain

本丸と北館の間の堀(左側が北館)

 この先、北上川に降るあたりは深い大きな空堀になっています。

 現状では底面が湿潤していて、一部は水たまりになっています。戦後間もない頃までは水の溜まった池になっていたようですが、前述の絵図などには水堀にはまったく触れられておりませんので、本来は空堀であったと考えられます。おそらく戦前に公園整備されたときに、水を入れて水堀のように改変したと思われます。

f:id:hm-yamaneko:20181015233500j:plain

  中館と南館の間の堀 左側が南館

f:id:hm-yamaneko:20181015233605j:plain

南館を南側から見たところ。周囲よりも一段高く残っています。この段の下を小さな空堀が廻ります。

 

〇 主な引用・参考文献

 盛岡市教育委員会2018年3月『平成26年・27年度盛岡市内遺跡群赤袰遺跡第3次・第4

  次発掘調査報告書』

 盛岡市遺跡の学び館2019年10月『安倍氏最期の拠点厨川』

 室野秀文2019年3月『厨川柵・嫗戸柵』盛岡市教育委員会

 室野秀文2021年3月『栗谷川城』盛岡市教育委員会