大光寺古館・大光寺新城2
前回(4月22日)の追加です。
主曲輪東側の土塁痕跡?
この東側は、低い土地になっています。
大光寺古館・大光寺新城
この春、青森県平川市三滝本の大光寺古館を見に行きました。同市三村井の大光寺新城は有名で、13世紀から17世紀初めにかけての城跡ですが、市街化著しく、城が存在した小高い地形から、どうにか輪郭をたどれる現状です。北曲輪、主曲輪(本丸)、南曲輪などが存在し、現在弘前城にある亀甲門(北門)は、この城の大手門の木材を使用していると云われています。同市光城にある平川市郷土資料館には、この城跡の発掘調査成果とともに、出土遺物が多数展示公開されています。
大光寺古館(左上)と大光寺新城(下)
(国土地理院ウェブサイトよりダウンロード)
この大光寺新城の北西方向、約500mほど離れて、周囲を田園に囲まれた畑の微高地があり、保食(うけもち)神社があります。この場所が大光寺古館と呼ばれる城館跡で、微高地全体を縄張りした平城です。古館は東西230m、南北220m~230mの、おにぎり形の微高地です。この北に、幅20mの堀を隔てて、径80mの微高地があり、小館と呼ばれています。
南西側のテラス
三段になっています
古館の微高地は、中央部が高く、縁辺側に緩やかに傾斜し、南西側には三段のテラスが造成され、1m~2mの段差になっております。東側にも二段のテラスがあります。
このような地形は、国土地理院の垂直写真でも、概ねたどることができます。微高地は堀が周回し、一部は水田用水路となって痕跡が残ります。テラス地形も帯曲輪や空堀の存在が予想され、もしも発掘調査すれば、遺構の内容が明確になることでしょう。現状の地形からは、二重か三重の堀や帯曲輪をめぐらせた、オーソドックスな城館が推定されます。古館と呼ばれているのは、大光寺新城よりも、先に廃絶した城館だったのかもしれません。
重要文化財土田家住宅を見学しました
先日、以前から行ってみたかった、秋田県由利本荘市矢島町の重要文化財土田家住宅を見学してきました。
国土地理院ウェブサイトによる空中写真(上下とも)(1976年の写真)
写真上方の東西に長い森は土田家祖先の居城根縫館跡。写真下部(南)の水田中に4か所集落がありますが、左から2つ目の半月形の集落が中世城館相庭舘跡。この相庭舘跡の西端に土田家住宅があります。
相庭館跡周囲の堀跡が、水田の区画になって巡っています。現在は圃場整備で水田の様子が異なりますが、周囲の用水堰はこの写真のままです。
土田家住宅南側を流れる用水堰。左側一段高くなっているところが相庭館跡で、用水堰はかつての堀跡を流れているようです。
南東側から見た土田家住宅。緑の生垣で囲まれています。
土田家住宅入口
向かって左側(西側)に中門が突き出しています。江戸時代には3間ほど出ていたらしいのですが、詳細が不明なため1間の張り出しに留めているそうです。
正面は土間に入る玄関部分。
中門内部。チョウナ仕上げの柱が見えます。
土田家の祖先は、江戸時代より前の中世には、このあたりの村の領主であったそうです。現在の建物は、17世紀後半に土田家当主が建築したものと伝承され、建物の解体修理の結果、建築様式も推定年代と一致しているそうです。秋田県では、羽後町の鈴木家住宅とともに、最古の民家だそうです。中門を座敷側に設けている例は、この土田家の特徴で、もしかしたら古い時代には、武家が賓客を迎える式台のような造りだったのでしょうか?現存する中門造りのほとんどは、土間側に中門が設けられて、馬屋を伴うのですが、このような構造をとっているのは、土田家が中世領主の系譜を引いているためなのでしょうか。内部にはチョウナ仕上げの柱が多く残り、建物全体に豪族居館の主殿のような雰囲気がうかがえます。機会をみて、また見学したいと思いました。
重要文化財土田家住宅の平面図
(財団法人文化財建造物保存技術協会1985年12月『重要文化財土田家住宅修理工事報告書』)による
花卷城の円城寺門
花卷城三ノ丸跡の鳥谷崎神社境内に移築されている円城寺門です。花卷城で唯一残る建築遺構で、城の櫓門としては岩手県内唯一の門です。旧和賀氏本城二子城(北上市)の大手門を、慶長年間に南部利直が移したと伝えられていますが、当時の部材がどの程度残されているのかは不明だそうです。櫓門としては小ぶりですが、門扉は透かし構えの格子になっております(現状は表側に横板を貼っていますので、内側に回ると格子戸が見られます)。また櫓の前面が出し桁で張り出し、当時は石落としになっていたと推定され、櫓中央の連子窓に突上げ戸の左右には矢狭間と鉄砲狭間を備えた実戦的な構えを見せています。花卷城当時は現在位置よりも30mほど南側の円城寺坂を登ったところに土塁の枡形があり、右折れで曲がったところに西面して建てられていたようです。円城寺は延壽寺とも呼ばれ、南部氏以前の稗貫氏時代にこの場所に存在した寺院の名称です。南部氏の花卷城追手門は三ノ丸西側で現在の花卷市役所本庁舎の東側にありました。三ノ丸南側に構えられた円城寺門は、花卷城の搦手門と云われていますが、円城寺坂の下には喰違土塁を備えた外枡形の虎口が存在し、城の縄張から見れば、本来はここが大手門として設計された可能性があります。
扉の内側は格子が残る
門扉を格子とする透かし構えは、外敵に対して槍衾(やりぶすま)をつくり撃退するためのもの。櫓門では長野県飯田城の八間門が現在も格子の透かし構えで残っていますが、江戸時代の城郭では透かし構えは少なくなり、現存する事例はあまり多くないようです。
円城寺門跡
右手の下り坂は円城寺坂、中央に土塁の痕跡がわずかに残存。その左側住宅へ入るところが門の跡か?
通天館(安倍館)
通天館の遠望(手前は胆沢川)
胆沢郡金ケ崎町永栄の曹洞宗永徳寺西方の山中にあります。
永徳寺
白衣観世音堂 永徳寺裏山の東端にあり、この西方に山道(樵驢径)をたどると通天館の東側虎口に至ります。
西側空堀
空堀と土塁で囲まれた単郭の山城で、樵驢径(しょうろけい)が東西に貫通し、西側虎口は土塁の外枡形。東側虎口は袖曲輪のような小郭が付属しています。曲輪の内部は自然の起伏が残りますが、北側の空堀は落差が大きく、見応えがあります。地元では安倍氏の館跡と伝承がありますが、枡形や土塁、空堀など遺構の様子は戦国時代末期の様相です。山道を扼するために構えられた山城であり、柏山氏の大林城(柏山館)支城と考えられます。なお、この城館と大林城との中間地点には、細越城という巧妙な縄張の城が存在します。
北側の空堀
この西方にさらに比高差のある空堀があります。
葉っぱの繁りはじめた時期であまり見通しがよくありません。冬期になりましたらもう一度撮影に行きたいと思います。