城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

上田組丁から四ツ家惣門・遠曲輪堀跡

 

盛岡城下町は、城を中心に、三重の堀が構えられて、御城内(ごじょうない:内曲輪)、外曲輪(そとくるわ)、遠曲輪(とおぐるわ)が、梯郭式(ていかくしき=城を要とした扇形の縄張り)に配置されておりました。

奥州街道は、南の仙北丁から北上川を渡り、城の南東側の穀丁惣門(こくちょうそうもん)から遠曲輪に入り、城の東側から北側を廻り、本丁から四ツ家惣門を通り、上田桝形から北上していました。

遠曲輪の外側、奥州街道筋の城下町北の入口が上田桝形(うえだますがた)です。ここは現在の国道4号線と国道46号線、上田通りの交差点です。NHK盛岡放送局の前のところです。桝形より内側の道筋は、江戸時代に足軽屋敷が並ぶ上田組丁(うえだくみちょう)でした。現在は上田通りと呼ばれ、商店や住宅が並んでおります。

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上田通り(北から)

江戸時代、両側に足軽屋敷が並んでいました。40年ほど前、茅葺屋根の足軽屋敷が数件残っていましたが、今はありません。朝夕を除けば、比較的静かな通りです。

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浄土宗正覚寺(上田組丁の東側)

作家:浅田次郎の『壬生義士伝』にも登場した寺です。

 

上田組丁から南へ進むと、途中、右側に三戸丁の通りが分岐します。

三戸丁へ進まず、そのまま進めば、遠曲輪の北西側の四ツ家惣門跡に至ります。遠曲輪とは、盛岡城の総構えのことです。堀の内側に土塁が築かれ、土塁上には柴垣がめぐらされておりました。土塁の桝形は、クランク状になっていましたが、現在はやや緩やかな曲折に変わっています。

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四ツ家惣門の跡(道路の曲折した地点)

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四ツ家惣門跡(東から)

 

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惣門跡の四ツ家地蔵尊

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四ツ家のお地蔵さんとして親しまれている石仏です

この裏手(西側)に赤川堰という水路がありました。これが盛岡城遠曲輪の堀跡です。

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四ツ家の赤川堰跡(遠曲輪堀跡)

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四ツ家惣門北側の堀跡(右の低いところ)

左側の草のある高いところが、遠曲輪北西隅にあたります。

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遠曲輪西側の堀跡(南から)

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遠曲輪西側の堀跡(北から)

四ツ家惣門の南方で、住宅地の間に細く長く残ります。