城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

大館ー中世滴石の詰城かー

■ 大館の位置 

 岩手県岩手郡雫石町山津田にある大形の山城。館の主は不明ですが、位置と規模からみて、雫石城(滴石城)と関係する山城と推定されます。

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大館(南西から)

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大館(南東から)

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大館(東から)

 北側(右側)の山から尾根が伸び、先端が高くなったところに、大館の本城があります。手前の中腹に緩やかにみえる所が別郭です。

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大館の位置と周辺地形(国土地理院Webサイトより)

  岩手郡の南西部、雫石盆地の西部に位置する山津田は、国見峠から流れ出る竜川の左岸にある集落で、江戸時代の秋田街道(国道46号線)に沿っています。この集落の北東にある、標高353.7m、比高約120mの山上に大館があります。北の山から伸びた尾根が鞍部を形成し、南へT字形に張り出し、高くなったところを活用しています。東側の沢に面した斜面から南側の斜面は非常に急峻で、南東斜面では、しばしば土砂崩れがおきています。

■ 本城の中枢と北尾根、東

 本城はⅠ~Ⅶの多郭(たかく)構造で、東の沢を隔てて、別郭(べっかく)が築かれています。南側中央のⅠが主郭(しゅかく:本丸のこと)で、南は崖に面し、他の三方を、幅3mほどの小さな空堀で、不正長方形に囲んでいます。この堀はかなり埋没が進んでいます。①のあたりには、大小の竪穴らしい窪みがあります。Ⅱは、Ⅰの西から北、東を囲む大きな曲輪で、内部に②と④の高まりがあり、北西側へ傾斜するなど、起伏があります。②と④の鞍部には、南側に③の坂虎口があります。ここには、中腹の⑩、⑪の平場からの登り道が到達していることからも、本城の大手虎口と考えられます。南西麓には⑨の山神社跡があり、⑨と⑩の間は、当時は斜面をつたう道があったのではないかと想像されます。山神社跡へは、山津田集落から参道があったことが、地形から判明します。

 Ⅱは周囲を空堀が巡らされ、東側の空堀は規模がやや大きい。Ⅱの北にはⅢがあり、比較的安定した平坦面です。ここも西側に空堀、東側は堀と腰曲輪が二段に構えられております。北の尾根筋にはⅣの小曲輪があり、堀切、空堀が囲み、北側には二重の堀が構えられています。Ⅱ④の東には、空堀の外にⅤがあり、ここを要に⑤、⑥の尾根が派生して、階段状に造られ、いくつかの竪穴があります。見張り小屋でしょうか。⑥の西側には、堀と土塁、腰曲輪が二段に構えられ、腰曲輪には⑫の井戸、腰曲輪直下には⑬の大井戸があります。本城の水の手であり、⑤と⑥の尾根は、水の手を守るように構えられています。 

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大館 (調査・作図:室野秀文)

※複製・転載は御遠慮ください

 

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Ⅱ④東側の空堀(北から)

埋没がだいぶ進行しています。

 

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Ⅳの小曲輪

 

■本城西側

 Ⅱの西側に⑦の虎口があり、前面の堀には土橋があります。西側のⅥは、西端が高くなり、竪穴があります。そこから堀切を隔て、Ⅶがあります。ここは小さな平場に分かれ、各平場に小形の竪穴があります。Ⅶから南へ斜面を下ると、⑨の山神社跡があります。

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Ⅶ西側の堀切

 Ⅶの西側には比較的大きな堀切があり、底部が二重になっています。この堀切の西は尾根上に竪穴があり、先端には三日月状平場が造られています。ここからは、西方に貝吹岳(992m)が望まれます。

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西方奥羽山脈の稜線に貝吹岳が見えます

 中央の山で、仙岩トンネルの上にあり、山頂に通信用反射板が2基あります。この山は、滴石の領主戸沢氏が、出羽に退去する際に、法螺貝を吹き鳴らせたという山です。戸沢氏は出羽仙北にも所領があり、両方の連絡用に使用した、狼煙台だったのかもかもしれません。

■ 別郭

 本城の東側、沢を挟んだ台地に、別郭があります。この沢を登ると、本城の水の手があり、本城の東の備えとして、また、水の手や、背後の尾根の守りとして、別郭が設けられたと考えられます。

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別郭の堀

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別郭の土塁

 弧状の空堀を掘り、内側に小さな土塁を設けて、曲輪を形成しています。空堀は本城の堀よりも大きく、内側が二段になっています。堀の改修を示しているのかもしれません。この段から斜めに登ると、土塁が2か所で切れて、虎口になっています。⑮は、土塁の端を外側に捻り、虎口としています。⑭は通用口でしょうか。また、東側では土塁内側にも空堀が認められます。郭内は、2か所の自然の高まりや傾斜があり、平坦ではありません。南東側にはいくつかのテラスがあり、竪堀状のところに⑯の水場があります。
 この別郭から北に斜面を登ると、本城の北の尾根と、合流します。この別郭は、尾根上を本城の北側へ移動するのを、防ぐ備えだったとも考えられます。

■ まとめ

 大館は大形の山城ですが、山上の曲輪の造成が粗野であり、堀も埋没が進んでいる状況から見ても、室町時代中か、それ以前に遡る可能性が考えられます。多郭構造の大形城館であることから、雫石盆地の拠点城館を、一時山上に避難させたような印象を受けます。あるいは、城の創築が南北朝内乱のころまで遡ることも、あながち無理ではないかもしれません。発掘調査が行われていないので、詳細な年代はわかりませんが、中世のある時期に、非常に大きな役割を持つ城として構えられたのは、間違いないと思います。

 

 

怪しい光—東京都青梅市御嶽山ー

 写真には、時に、意外なものが写りこむことがあります。

 

 2012年の12月15日、東京都青梅市御嶽山に参拝しました。この日、山は曇り空で、木々の葉もだいぶ落ちていましたが、多くの参拝客でにぎわっていました。御岳山は標高929mの山で、山頂の御嶽神社には、中世・近世の社殿が残り、戦国時代には北条氏と武田氏が奪い合った、御岳城の遺構もあると聞いていました。しかし、一番の目的は、神社の宝物館に収蔵される、国宝の甲冑を見学したいと、以前から考えていました。

 ただ、前の年に病気で半年余り休職したため、この日ようやく目的が適ったのでした。

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              御嶽山 右の尖った山は奥の院

 

 山頂には御嶽神社の他、多くの宿坊や土産物の店があり、江戸時代の御師の住宅も残っています。山の上に大きな門前町が存在することに、驚きました。

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御嶽神社旧本殿(室町時代

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説明板

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御師の住宅

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                   宝物館

 赤糸威の大鎧は、鎌倉幕府草創に尽力した、畠山重忠の奉納と伝わるもので、数少ない平安時代末期の大鎧です。やはり、本や写真でみるのとは、印象が異なり、鎧や兜から発せられる、武士の息遣いのような、気のようなものを感じとることができました。もう一つ、ここには鎌倉時代中頃の、紫糸裾濃威の大鎧があります。こちらも日本の大鎧を代表するもので、実に見ごたえがありました。

 見学を終えて、宿坊に入り、入浴、夕食を済ませて、部屋でくつろいでいましたが、窓を見ると、市街地の夜景が見えたので、写真に収めました。この日夜空は曇っていて、星や月は見えませんでした。

 

 

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写真1

 翌々日、帰宅してから、写真を取り込んでみたところ、夜景は手振れしていまして、失敗作。しかしよく見ると、写真の上部に大きな丸い光体のようなものと、画面左端の中ほどに、青白い小さな光体が写り込んでいました。青白い光は小さいので、下に拡大した写真を貼り付けました。

 

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写真2(拡大)

 撮影時には全く気付かなかったもので、なんで写り込んだのかわかりません。特に、左側の青白い光体は真っ暗な木立のところで、撮影時に、もしもこのような光源があったならば、それに気づいていたと思います。上部の朧気な光体も、星や月ではなく、動画や写真で見るオーブというものに似ています。

 私は、怪異に関心があり、心霊現象や超常現象のTV番組など見たりもします。しかし、現実にそうした現象が起こるのかどうかは、半信半疑です。写り込んだものが、にわかに霊魂だ、人魂だと決めつけるわけにもいきません。いったいどのような原因と条件で、このような光体が写り込むのでしょうか?

 

 

玉山館ー河村氏系玉山氏の居城ー

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積雪期の玉山館(西から)

右側が主郭の大館、左側は小館、大館と小館の間は大きな堀切


 盛岡市玉山城内にある中世城館で、室町時代から戦国末期まで、この地域の村落領主、河村氏系の玉山氏の居城でした。現在は大半が農地で、夏場でも遺構が見やすい城ですが、農作物がある時期は、見学には充分注意が必要です。玉山村当時は村指定史跡。現在は盛岡市指定史跡になっています。

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玉山館位置図(国土地理院Webサイトより)

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玉山館と周辺(国土地理院Webサイト写真に加筆)

 東楽寺には平安時代後期の十一面観音菩薩立像や金剛力士像があります。これらの古い仏像群は、江戸時代の盛岡藩主南部重直のとき、盛岡城下の仁王観音堂から移されたものと、姫神山周辺の観世音が集められたともいわれています。明治の廃仏毀釈で玉山観音堂も廃され、この寺に集められました。

 この寺の東方の丘陵に経塚のある十二神山があり、南に突き出す舌状台地を活用して玉山館が築かれています。南側に主郭である大館、大きな堀切を隔てて、北に小館が構えられ、周囲に二・三段の腰曲輪や、空堀が構えられています。周辺は金山地帯であり、十二神山の北東の山中から、玉山館の小館北側に至る、巨大な金掘り溝があります。こうした産金も、玉山氏一族の経済基盤であったと思われます。

 この城館の見どころは、①各曲輪と、堀、腰曲輪の比高差が大きく、大掛かりな土木工事で築かれている事。②東楽寺からきた大手道が、大館・小館間の堀切内の枡形のような所で道は右に折れ、大館北西側の箇所に登るようになっていること。などがあげられます。大規模な造成と共に、守りの工夫が凝らされています。

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大館の平坦部

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大館の東辺部

 大館は東側が最も高く、西側へ低くなる地形、当時は二段か三段に造成されていたらしい。

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小館東側の堀と腰曲輪

 中央の棚は堀内部にたてられている。右側は土塁。後方の土色が黒いところは、外側の堀が埋没した部分で、現地は幾分低みになっている(白黒垂直写真参照)。

背景は経塚のある十二神山。この十二神山の北側も、小規模な空堀が巡っている。

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小館東の堀と腰曲輪

 先ほどの反対側から見た状況。ススキの生えた土塁は、地山を削り出したものらしい。

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大堀切(右が大館、左が小館)

 堀の左寄りを大手道が登る。大館の木立の場所は突出部で、櫓が構えられたところか? この下は枡形状になっている。ここから、道は右に折れて、大館北西部に登る。

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大館から小館を見る

 大館北西部から小館を見たところ。枡形内を、小館・大館突出部・大館北西部の三方から攻撃できるように造られていることが、よくわかります。

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大館西側の腰曲輪

 大館・腰曲輪ともに、切岸は急勾配で、登りにくい。

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旧玉山観音堂(現在は玉山館東側の姫神神社拝殿)

 旧観音堂を改築したものといわれています。











 

 

 

 

小屋崎館

盛岡市玉山の北部、寺林を北上し、岩手町川口駅の手前、国道4号線が大きくS字カーブしながら、鉄道を越える所(鉄道ファンが列車の写真を撮っていることがある)から、正面左手に小屋崎館(こやさきだて)が見える。この館(たて)は、北上川右岸に接し、北に向かって突き出した丘陵の先端にある。冬場であれば、写真のような二重堀切がよく見える。

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位置図(国土地理院webサイトより)

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小屋崎館(東から)

この館は、東側の崖上が尾根の頂部にあたり、西側に数段のテラスが造成されていて、先の堀切から伸びた空堀が、このテラスを囲む。単郭の城館である。各平場には竪穴建物とみられる窪みが分布している。玉山から岩手町にかけて、こうした北向きの城館が多い。城館の構造はオーソドックスで、戦国期でも比較的古い段階と思われる。岩手郡と、北の糠部(ぬかのぶ)と、激しい対立があったことがうかがえる。

大釜館と八幡館

 岩手県滝沢市の大釜にある城館。JR田沢湖線秋田新幹線大釜駅(※新幹線はとまりません)から徒歩15分ほどのところに東林寺という寺があり、その周囲が大釜館跡です。戦国時代末期には、和賀氏の支族大釜氏が居住していました。

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東方から大釜と八幡館山を望む

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大釜館と八幡館周辺図・大釜館略図

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大釜館遺跡説明板

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大釜館西部

平野の微高地に立地しています。

大釜館から西に1.3キロメートルに八幡館山(H=245m)があり、八幡館が築かれています。

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八幡館山(白山)

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1965年の八幡館山(国土地理院webサイトより)

 積雪期の写真で中央が八幡館山。山頂は径40mほどの円い平坦部で、周囲を空堀やテラスが周回しているのが見える。南東斜面は雛壇状にテラスが造成され、囲郭する空堀から、竪堀が分岐しています(写真ではわかりませんが)。北東尾根には二重の堀切。北側中腹には犬走状のテラスが周回している。竪堀や雛壇状テラスは、戦国期の山城のものです。この山から右下に少し離れて、八幡宮の森が見えます。この境内にも小さな堀やテラスが認められます。

 

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北東尾根の堀切

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南斜面の空堀(横堀と竪堀の分岐点)

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盛岡方面の眺望

遠景中央の最高地点は阿部館山、右端に霞む高山は早池峰山






 大釜館も八幡館も、中世城館であるけれども、11世紀の遺跡も重複しており、当時の土器が出土しています。大釜館では、外館という地域に大形の掘立柱建物の屋敷跡があり、建物跡と周辺の溝から、11世紀の坏がまとまって出土しています。八幡館山山頂からも、同質の土器破片が多く採集されていて、同時期の城館の存在がうかがわれます。

 また、この山は白山(しろやま)とも呼ばれ、安倍宗任が居たという伝承があります。山の西側の千ヶ窪は、源義家が兵を潜ませたところ。大釜の地名は、義家が大きな釜で炊飯したことに由来するといわれています。

 このあたりは、岩手・志和から雫石に抜ける要路で、八幡館山の上からは、遠く紫波町方面まで望まれます。この地に大釜氏が入ってきたのは、斯波御所を要とする、広域勢力が形成されたことと関連し、斯波氏影響下にあった和賀氏の支族太田氏が、雫石川の対岸、太田館にも居住していました。

  天正14年(1586)から南部信直が侵攻し、同年秋に雫石御所(雫石城)が攻略され、さらに天正16年7月末ごろ、斯波氏は高水寺城を追われました。

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麓の八幡宮境内の西側の小さな空堀 (手前の低み)

途中からテラス状になり、右奥の社殿のほうへ巡っています。社殿の前(東)は、神社によって削平されています。

蝶ヶ森館(経ヶ森:盛岡市門真立)

 5月2日の廻館考で述べた、

盛岡市門(かど)の真立(まだて)にある蝶ヶ森館(ちょうがもりだて)。

江戸時代の文献や、大日本地名辞書(吉田東伍1906)には、経ヶ森と記されており、蝶ヶ森と呼ばれるようになったのは、さほど古いことではないらしい。山頂には経塚の痕跡(三角点がある)があり、岩手県内の諸例からみて、12世紀平泉藤原氏のころの経塚らしい。かつて壷が出土したとも伝承されている。

麓の門(かど)は、北上川西岸の西鹿渡(にしかど)に対峙して、中世の北上川渡渉地点であった。

真立は廻館から転化した地名で、頂部の曲輪を、多重壕が周回する城館の呼び名らしい。現在の遺跡地図では蝶ヶ森館となっているが、城館名としては真館(まだて)としたほうが良いのかもしれない。

北西斜面に外曲輪を増設するなど、北に対する防御がうかがわれる。ここは志和郡と岩手郡の境界に位置し、館主は土豪の吉田氏らしい。吉田氏は簗川流域の川目から、東中野安庭、門を基盤とする一族で、岩手郡と志和郡境界付近を領有しつつ、室町・戦国期の斯波御所(斯波氏)の北の備えの一つであったと考えられる。

戦国末期の天正10年(1582)ごろまでは、斯波御所の勢力は志和郡、岩手郡を中心に、広域に及んでいた。三戸の南部晴政・晴継死去ののち、南部信直が三戸南部家を継承し、しだいに斯波氏を圧迫した。

 南部信直は、天正14年(1586)夏ごろから、前田利家を通じて豊臣秀吉に臣従した。同年秋には、斯波氏一門の雫石城(雫石御所:雫石町)を攻略。天正16年(1588)夏、斯波氏家中の離反を見た南部信直は、この山に陣取り、さらに志和郡陣ケ岡(紫波町)に陣を移して、7月下旬ごろ、斯波氏の高水寺城を攻略した。

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蝶ヶ森館(南東から)

左側の背景市街地は盛岡市仙北町あたり、

蝶ヶ森の手前斜面から山麓部が門の真立集落

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1965年冬の蝶ヶ森(国土地理院webサイトよりダウンロード)

※上が北東

 積雪時の垂直写真で、卵形の山頂を取り巻く、幾段ものテラスと、空堀が見える。北西側斜面には緩やかに傾斜したテラスがあり、その北側にはへの字に曲がる空堀が見える。これは戦国期に拡張した外曲輪だろう。写真左下の灌木があるあたりは、北上川の河原の一部。現在でも、城館の地形は概ね保存されている。

廻館考

 私のフィールドに、時折、マタテ・マワッタチ・マッタヅなどの地名がある。漢字にすれば、真館・間館・廻館・真立などと標記される。多くの場合、その場所か近傍に、山城が存在する。

 盛岡市門(カド)と東安庭との境にある蝶ケ森(経ケ森)には、空堀が二重、三重に廻る蝶ケ森館があり、その南斜面と山麓の字名は真立(マダテ)である。東側の鑪山(タタラヤマ)から伸びた尾根の先端が盛り上がったところに構築され、山頂は数段に分かれた曲輪になっており、西側の北上川を見下ろすところには、さらに多くのテラスが築かれて、これらを取り巻くように、空堀が周回しているのである。現在でもこの地形はよく残り、ノロシ山とも呼ばれている。室町から戦国時代、在地土豪の吉田氏の城館と推定されるが、天正16年(1588)の夏、三戸(サンノヘ)の南部信直が、斯波詮直(シバアキナオ)を責める際に、この山に布陣している。信直は渡河して志和郡の陣ヶ岡へ陣をうつし、7月末ごろ、高水寺城を攻略して斯波氏を滅亡させた。門(カド)は河渡から来ており、北上川の渡渉地点を示す。南部信直が進軍した通り、交通を扼す目的で構えられたのが蝶ケ森館だったのである。

 もう一つ、岩手郡葛巻町小屋瀬に廻館(マワリダテ)というバス停がある。この南側に高い山があり、山頂に小屋瀬館がある。ここはまだ踏査していないが、日本城郭体系2に図が掲載されている。これによれば、山頂の平場をいく段ものテラスが周回する構造で、各平場に竪穴建物の窪みがあるという。さらに尾根を小さな堀切で区画している。館主は鈴木氏とされるが、詳しいことはわかっていない。

 盛岡市の蝶ケ森館と、葛巻町の小屋瀬館に共通するのは、どちらも規模の大きな城館ではなく、堀やテラスが周回する単郭構造の城館であることである。当時の人々は、空堀や、幅の狭いテラス状の平場が、中心部を廻って防御する館を見て、その形状から廻り館(マワリダテ)と呼んだのではないだろうか。真館(マダテ)もマワリダテ、マッタテ、マッタチから転化した地名らしい。

 この地方の城館には、他にも、丸子館、茶臼館、車館など、館の形状に起因する城館名が見られる。館の名称から、あれこれ考えてみるのも楽しい。