山猫の山ある記

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

栗谷川城(厨川柵・嫗戸柵擬定地)(※改訂中)

 岩手県盛岡市安倍館町(あべだてちょう)~上堂(かみどう)一丁目に所在する城館跡で、北上川西岸の比高22mの台地上にあります。西側は木賊川(とくさがわ)の低地になって、北の上堂から南の館坂に向かって長く張り出した台地上に曲輪を連ねる連郭式の城です。ここには室町時代から戦国時代、工藤氏(厨川氏)の居城栗谷川城が存在しましたが、奥羽仕置きの後、天正20年(文禄元年:1592)に破却されました。現在は中央の本丸、中館、北館の堀がよく残されているほか、北側の外館と、南側の南館は一段高い地形で残り、なんとか輪郭がわかります。北端の勾当館や西側の帯曲輪は市街化が著しく、輪郭をたどりにくくなっています。

 また、この城跡は古くから安倍館(あべだて)の名で親しまれており、平安時代後期の前九年合戦の古戦場厨川柵と嫗戸柵という伝承もあって、安倍氏が滅亡した柵跡としても有名な場所です。その当否はまだはっきりしませんが、栗谷川城跡は市街地の中にありながら中世の城館を体感できる場所として、貴重な存在ではないでしょうか。

 安倍氏の柵と中世栗谷川城との関係については後ほど述べたいと思います。

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栗谷川古城図の写し      (盛岡市遺跡の学び館パンフレット) 

※この絵図の原本は、もりおか歴史文化館に所蔵されています。

 

1 安倍氏

 平安時代の中~後期、北上川中流域の胆沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手の諸郡は奥六郡と呼ばれ、陸奥鎮守府の置かれた城柵の胆沢城(延暦21年:西暦802年建置:岩手県奥州市水沢所在)の管轄地域でした。その胆沢城の在庁官人として現地登用された豪族の一人が安倍氏でした。平安時代の中ごろには、陸奥守や鎮守府将軍などは直接現地に赴くことは稀になり、国の役所の実務は、官人(役人)となった地方豪族たちに任されるようになりました。安倍氏はもともとこの地方の豪族であったとする説もありますが、近年は中央の貴族安倍氏一族から東北地方に下った人物がいて、現地豪族と姻戚関係を結び土着したとする説が有力になってきております。安倍氏鎮守府在庁官人として実務にあたりながら、しだいにその地位を高めて、陸奥鎮守府の役人を代表するほどに成長しました。後に前九年合戦で陸奥源頼義と対立した安倍頼良(後に頼時と改名)の父安倍忠良(忠好)は陸奥権守(むつのごんのかみ:次官)に任じられたとされています。忠良の息子の頼良はその基盤を受け継ぎ、奥六郡各地に一族を配置して、奥六郡の北上川両岸地域を自らの影響下に置きました。さらに陸奥国多賀城の有力官人であった藤原経清亘理郡司)や平永衡伊具郡司)と縁戚となり、衣川以南の磐井郡にまで進出しはじめたため、陸奥国府と軋轢を生じ、前九年合戦へと向かいました。

 

2 前九年合戦

 合戦の初期から数年間は安倍氏優勢のうちに推移しましたが、康平五年(1062)出羽の清原氏が源氏軍に合流すると形成は逆転し、安倍氏は小松柵、石坂柵(一関市)、衣川関(平泉町奥州市衣川)、琵琶柵(衣川)、鳥海柵(胆沢郡金ヶ崎町)と敗退し、9月日には源頼義清原武則鳥海柵にはいります。続いて黒沢尻柵(北上市)、鶴脛柵(奥州市江刺区)、比与鳥柵(奥州市江刺区〜北上市)が陥落し、9月15日には厨川柵に向かい、同日夕刻に厨川柵、嫗戸柵を包囲しましました。厨川柵、嫗戸柵は二面が川に面し、西北には大きな沢があり、河岸は三丈有余(9m以上)の急崖になっており、登ることは困難。川と柵の間には隍(溝)を掘り、底には多くの刃を逆立て、鉄(撒菱)を撒いて防備を固めていました。櫓の上には士気の高い兵士がいて終日監視を怠らず、近づくものには刀や鉾で応戦し、遠くにいる兵には弩を飛ばして攻撃しました。高楼には綺麗に着飾った女たちが歌い舞いながら、官軍を大いに挑発したため、源頼義はこれを深く憎みました。翌16日、終日合戦が続き、安倍氏は石や積弩を乱発して必死に抵抗し、官軍の死者は増すばかりでした。17日、頼義は付近の村落を壊して運び、溝に積み上げて、萱草を積み上げて、神火としてこれに火を放ち、火攻めにしました。火は強風にあおられて柵や櫓に刺さった矢羽根に燃え移り、柵はたちまち炎と煙に包まれました。柵内数千人の男女は泣き叫び、生き地獄と化しました。清原武則は一計を案じ、囲みの一方を解いて、中の人々を外に出しました。城内の者たちはたちまち戦意を失い、戦火を逃れようと脱出を試みます。官軍は横から攻めて、ほしいままに打ち取りました。追い詰められた人々は川に身を投げ、あるいは自ら首を刎ねて自刃しました。貞任は奮戦しましたが鉾で刺されて重傷を負い、6人がかりの大楯に載せられて頼義の面前に引き出されましたが、頼義に一面して果てました。藤原経清藤原清衡の父)は捕縛されて頼義の前に引き出されると、頼義はその罪を咎め、鈍刀で経清の首を引き、時間をかけて首を落としました。安倍宗任は沼地に隠れていましたが後日投降。家任は出羽の清原氏一族の大鳥井太郎頼任のもとに逃れていましたが、後に投降しました。この合戦の結果、安倍貞任藤原経清の首は京へ移送されて獄門に懸けられ、安倍宗任らは伊予国を経て太宰府に流されます。清原武則陸奥鎮守府将軍に、源頼義伊予国司に任じられました。

 

 安倍氏の本拠地は衣川北岸地域と考えられてきましたが、現在は胆沢川北岸の鳥海柵(とのみのさく:胆沢郡金ヶ崎町)と考えられており、鳥海三郎宗任の柵とされています。北上市の黒沢尻には黒沢尻五郎正任の黒沢尻柵。岩手郡の厨川には厨川次郎貞任が拠点の厨川柵と嫗戸柵を構えていました。厨川柵は盛岡市天昌寺町の里館遺跡とされてきましたが、ここでは11世紀の遺構や土器は確認されておらず、15世紀から16世紀の陶磁器や貨幣が出土しております。近年では出土土器から盛岡市大館町、大新町付近が有力視されています。

 安倍館がいつ頃から安倍氏の柵と考えられてきたのかは定かではありませんが、江戸時代の正保年間に描かれた南部領惣国絵図には、栗谷川古城の地を「阿倍貞任宗任陣場」と記していることから、江戸時代初期には、この場所が厨川柵と伝承されていたことがわかります。その後寛文8年の栗谷川古城図には、雫石川対岸の太田方八丁(古代城柵の志波城跡)を「八幡殿陣場」と記し、栗谷川古城共々前九年合戦の遺跡として伝えています。八幡殿は八幡太郎義家すなわち源頼義の嫡子源義家のことです。江戸時代盛岡藩主の南部氏も甲斐源氏の末裔であり、武田氏、小笠原氏、秋山氏、佐竹氏と祖先は同じです。南部氏もまた、栗谷川古城、太田方八丁ともに祖先の偉業の地として顕彰し、この地を治める正当性を主張していたのです。近代になっても安倍館は安倍氏の柵跡、前九年合戦最後の戦場として伝承され、大正の末から厨川村と盛岡市の合併が協議され、合併条件として安倍館の公園整備が決定されました。

 

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栗谷川古城(左上)と方八丁八幡殿陣場(右下) (遺跡の学び館リーフレット

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 厨川柵・嫗戸柵擬定地と周辺遺跡      (盛岡市遺跡の学び館リーフレット

 安倍氏最後の戦場となった厨川柵、嫗戸柵は、盛岡市の厨川地域に存在したと考えられてきました。近年の発掘調査成果から、厨川柵は盛岡市大館町、大新町、小屋塚の3遺跡あたり、嫗戸柵は安倍館遺跡(栗谷川城)あたりと推定されるようになりました。安倍館は大正の末ごろから、岩手県の歴史研究者伊能嘉矩が地形や地名から姥戸柵ではないかと指摘しておりました。大新町遺跡、小屋塚遺跡では11世紀の掘立柱建物跡や竪穴建物跡。大館町遺跡では11~12世紀の大溝が確認されています。平成26年から27年にかけて、西青山一丁目の赤袰遺跡(あかほろいせき)で、11世紀の竪穴建物跡、土器を焼いた窯跡、掘立柱建物跡が調査されました(盛岡市教育委員会2018)。発見された土器は素焼きの小皿、坏、高台付坏などが主体で、大新町遺跡や小屋塚遺跡、鳥海柵跡(金ケ崎町)や大釜館遺跡(滝沢市)で出土している土器と酷似しています。厨川柵、嫗戸柵などに供給した土器生産遺跡と考えられ、安倍氏の柵関連遺跡として注目されています。このほか、北西部の西青山三丁目の境橋遺跡、南西部の稲荷町遺跡、南東部の宿田遺跡、北東部の上堂頭遺跡では11世紀の土器が出土しており、上堂頭では 仏堂または社殿と推定される掘立柱建物跡が確認されています。

    

   

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 栗谷川城縄張復元図               (盛岡市遺跡の学び館)

 現在の地形図に城館の輪郭を投影したもの。

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本丸西側の堀

柵で囲まれているのは安倍館七不思議のひとつ「片羽の葦」です。

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 本丸南西角部分

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本丸南側の堀 右側が中館

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本丸北東部の厨川八幡宮

江戸時代寛文八年の絵図には八幡宮が表記されています。

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本丸北側の虎口

 向かって右側は土塁が突き出しています。北館から一旦堀底に降りて、この写真の坂道を上り、左に入ると本丸の内部です。坂の上には門が構えられていたことでしょう。

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本丸と北館の間の堀(左側が北館)

 この先、北上川に降るあたりは深い大きな空堀になっています。

 現状では底面が湿潤していて、一部は水たまりになっています。戦後間もない頃までは水の溜まった池になっていたようですが、前述の絵図などには水堀にはまったく触れられておりませんので、本来は空堀であったと考えられます。おそらく戦前に公園整備されたときに、水を入れて水堀のように改変していたのではないでしょうか。

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  中館と南館の間の堀 左側が南館

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南館を南側から見たところ。周囲よりも一段高く残っています。この段の下を小さな空堀が廻ります。

 

〇 引用・参考文献

 盛岡市教育委員会2018年3月『平成26年・27年度盛岡市内遺跡群赤袰遺跡第3次・第4

  次発掘調査報告書』