文治五年(1189)奥州合戦源頼朝の陣 紫波町陣ヶ岡

文治五年(1189)8月22日平泉を制圧した源頼朝は、同年9月2日、蝦夷ヶ島(北海道)を目指して逐電した藤原泰衡を追い、岩手郡厨川柵(岩手県盛岡市)に向います。同月4日、志波郡(岩手県紫波郡)陣ヶ岡蜂社(紫波町陣ヶ岡蜂神社)に布陣しました。この前日(3日)、藤原泰衡は比内(秋田県大館市)の贄柵において、家臣河田次郎の謀反で討たれてしまいました。4日、北陸道から出羽を経て行軍していた比企能員、宇佐見実政らが陣ヶ岡に合流し、鎌倉軍は28万4千騎になりました。9月6日、河田次郎は泰衡の首を携えて、陣ヶ岡に来着し泰衡の首を差し出しました。和田義盛畠山重忠は囚人赤田次郎に首を見せて藤原泰衡の首に相違ないことを確認しました。源頼朝河田次郎を不忠者として斬罪に処し、泰衡の首を晒しました。9月11日、頼朝は志波の高水寺と走湯権現を経て行程25里(16㎞余り)の厨川柵に移動。翌日の12日には岩手郡地頭に工藤行光を任じます。厨川には8日間滞在し、9月19日には再び平泉に向かいました。

頼朝が布陣した陣ヶ岡は紫波町陣ヶ岡にその遺跡があります。JR東北本線古館駅の葯1.5㎞南西の地点、国土地理院の1:25000地形図で見ると標高135.6mの三角点のある丘で、西洋の盾を伏せたようななだらかな地形です。

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陣ヶ岡東側(平成23年

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陣ヶ岡西側(平成29年6月11日)

今年の6月11日日曜日に陣ヶ岡を訪れました。

頂上には蜂神社があり、丘の周囲には空堀がめぐらされております。現状では丘の東側は畑や果樹園になっているため堀は不明瞭ですが、西側の山林になっているところには幅6m~8m、深さは1m~2mの浅い感じの空堀が残っています。戦後の昭和23年に米軍が撮影した国土地理院の空中写真と拡大してみると、東側にも堀のラインが所どころ認められ、堀で囲まれたその範囲は南北430m、東西は220mほどになります。蜂神社から西側の方へ下っていくと、木製の橋が架けられていて、「八門遁甲の堀」と標柱が立てられています。この堀が何時の時代の構築物なのかはっきりしませんが、自然地形に沿ったプランでめぐっていることから見れば、案外文治五年の合戦時まで遡るのかも知れません。もしもそうであれば大変に貴重な陣城の遺構になります。この堀を西に渡ってしばらく進むと、周囲を堤で囲まれ池の跡あり、日の輪、月の輪とよばれる中島が造られています。これは藤原秀衡が構築したと云われています。陣ヶ岡から北東側少し離れた場所には藤原泰衡首洗い井戸が残っています。

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 陣ヶ岡西側の空堀

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陣ヶ岡空中写真(1948米軍撮影、国土地理院空中写真閲覧サービス)

堀が山林で隠れているところを水色の線で表示してあります。線のないところをよく見ていただくと堀のラインが見えてきます。現在は東半分は堀が埋められて畑や果樹園になっています。西側(左)には日の輪、月の輪の園池跡も鮮明に見えています。

 

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 藤原泰衡首洗い井戸