城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

熊の足跡(北上市上鬼柳)

【撮影日2018年1月19日】

 北上市の上鬼柳宿というところに鹿島館という城館跡があります。この館跡を調査に行った折りに、熊の足跡を見つけました。

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 最初は何の足跡なのか分かりませんでしたが、よく見ると爪があり、形から熊の足跡だとわかりました。黒い手帳の長さは21㎝。1月中旬に冬眠しないで歩き回る熊の存在に驚きました。しかも人家やお寺の近所です。これから紅葉の美しい季節になり、やがて晩秋になります。熊にはくれぐれも注意したいと思います。

遠野市 横田城(護摩堂城)

 遠野市松崎町光興寺の護摩堂山に、鎌倉時代の建保年間(1213~1219)に築かれたとされる阿曽沼氏の居城跡です。天正年間(1573~1592)に鍋倉山に城を移すまで、ここが遠野盆地の拠点城館でした。現在でも城の地形はよく残されています。

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中央の山麓の山にあります。背景は高清水山。

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位置図 (国土地理院

 

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入り口の看板

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曲輪に登る坂道

 

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曲輪の内部、薬師堂の参道です。

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薬師堂

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 本尊の薬師如来

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曲輪の後背部に掘られた大きな空堀

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曲輪の北東斜面には土塁や縦堀があります。

f:id:hm-yamaneko:20180930230844j:plain遠野遺産の説明板

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横田城の全景(南東から)

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上の住宅は東側の腰曲輪にあります。その下の道路添いに塚があります。

横田城は山麓部の後背部に大きな空堀を掘り区画した単郭の城館で、東側の斜面を雛壇状に造成して腰曲輪を造っています。

 

 

 

青森市 高屋敷館遺跡

 青森県青森市浪岡の高屋敷館遺跡です。国道浪岡バイパス建設のため発掘調査されましたが、平安時代後期の防御性集落跡であることが判明し、その重要性からバイパスは迂回することになって保存されました。国指定史跡になっております。まだ整備途中のようですが、見学しました。

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                                                              位置図                   (国土地理院

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 高屋敷館遺跡の垂直写真(Googleより)

 

大釈迦川に面した段丘縁辺部にあり、外側に土塁を伴う堀が廻っています。

内部の四角いものは竪穴建物跡

 

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 南西側の堀と土塁のカーブ

空堀の外側に土塁が盛られています。

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曲がり角は南東隅の部分

この曲がり角の北側(左側)の堀の中から木橋の橋脚が発見されています。

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西側の土塁と堀と柵(復元)

実際の空堀は深く急傾斜で掘られていました。遺構保護のため浅くしてあるようです。

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堀の屈曲部と門(復元)

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門と堀屈曲部の関係(北から)

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内部の竪穴建物跡の平面表示(アスファルト部分)

後方は柵と門

 

整備工事の完成と公開が待たれます。

 

旧山形城門 千歳山萬松寺山門

 山形市の萬松寺に山形城から移した門があるというので、昨年見学に行きました。千歳山の麓に古代から存在した言われる由緒のある寺院で、最上義光が山形城を修築の際、寺領60石とともにこの門を寄進したのだそうです。伝承では山形城の南大手門とされています。

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門の外側

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門の内側

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門の説明板

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門の下層部分

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上層部の側面

 御住職さんのお話では、昔、門の二階は鐘楼として使用されていたとのことで、現在梵鐘は寺の境内にある鐘楼に移されています。

 城の櫓門の柱としてはやや細めですが、中世城郭の発掘調査などを見ても、あまり大きな礎石や柱穴はありませんので、戦国時代の城門はこのぐらいのものが多かったのかも知れません。山形城は、最上義光の改修によって、石垣造りの瓦葺きの城に生まれ変わったのだそうです。そのときには現在山形城に復元されている城門のように、より強固な太い材料で建てられたことでしょう。

 門の見学にあたり、萬松寺の御住職様には本当におせわになりました。

 

秋田県湯沢市 稲庭城

 横手市に所用があり、その午後に稲庭城にいきました。小雨が降っていたのであまり歩けなかったのが残念です。

f:id:hm-yamaneko:20180930130133j:plain 城の遠望

f:id:hm-yamaneko:20180930130341j:plain 模擬天守が見えます

f:id:hm-yamaneko:20180930130939j:plain 城の全体模型

 模擬天守があるのは左側の細長い曲輪で二の丸と云われている。三条の堀切を隔て、少し離れてもう一条の堀切の上(右)にある広い曲輪が本丸と呼ばれるところ。

f:id:hm-yamaneko:20180930131500j:plain彦根城天守に似た模擬天守です

 この二の丸まではケーブルカーで登りました。

f:id:hm-yamaneko:20180930131708j:plain 甲冑展をやっていました

 江戸時代の金小札紺糸威の丸胴具足です。

f:id:hm-yamaneko:20180930132051j:plain 二の丸模擬天守東にある高台、狼煙台と云われているところですが、背後が堀切に接しており、櫓台の可能性があります。

f:id:hm-yamaneko:20180930132535j:plain 櫓台から見た本丸

 

f:id:hm-yamaneko:20180930132732j:plain ここには三重の堀切りがありましたが、現在はこのような道路です。白い車の左手には最も内側(西側)の堀切のはじっこが残っていました(次の写真)。

f:id:hm-yamaneko:20180930133032j:plain 櫓台からは相当な落差があります。

f:id:hm-yamaneko:20180930133326j:plain本丸に登る尾根にある堀切

f:id:hm-yamaneko:20180930135859j:plain  堀切りを見下ろしたところ

 

f:id:hm-yamaneko:20180930133500j:plain 本丸の虎口 

f:id:hm-yamaneko:20180930135515j:plain   本丸の平坦面。自然地形が残る粗野な造成です。斜面の平場はやや分散的な造成。

 

 

釜石市片岸町 安倍館 


 大震災翌年の2月、岩手県釜石市片岸町と上閉伊郡(かみへいぐん)大槌町との境にある安倍館(高舘)に登りました。場所は釜石市鵜住居川の北、片岸町や古廟坂トンネルの西側、標高333mの山頂です。安倍館と呼ばれる山の頂に、城館の遺構が実際に存在するのかどうか、ずいぶん以前から関心があったのだが、なかなか探索を果たせないでいました。岩手県内陸部や秋田県などの山城は、厳冬期になると積雪で歩けないところが多いのですが、沿岸部ならば積雪は少なく、高い山でも登頂できる可能性がある。目的地の気象情報を見て積雪がほとんどないのを確認し、現地に向かいました。

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鵜住居から見た安倍館

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位置図(国土地理院

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片岸町から見上げた安倍館

 

 釜石市鵜住居や片岸町も、前年3月11日の大津波によって、低い場所の人家はほとんど流されて、小高い山際の人家だけが残されていました。なんとも空虚で悲しい光景です。坂を登って行くと高舘不動尊の立て札があり、右にカーブしたところの駐車場に車を置いて、簡単な昼食のあと不動沢に入りました。まもなく不動明王の石像とその近くに凍り付いた一ノ滝がありました。さらに奥に入ると二ノ滝、さらに高いところに左右二筋に分かれて凍り付いた三ノ滝がありました。高さは15ⅿほど、両側は20ⅿ近い断崖です。滝の手前の右手(北側)の斜面を登りはじめましたが、かなり急峻な地形です。この山は麓から見上げれば樹木に覆われていますが、実際の斜面は至る所に岩肌があり、もしも足を踏み外したらば命を落としそうな絶壁もあります。まるで修験道の山伏が修行する霊場みたいな山です。それでも急斜面や山道を辿りながら、時々岩場をよじ登り、中腹の鉄塔のある尾根まで登ってきました。このあたりから上の斜面も岩が多く露出し、大石の間を道が通じているところも通りました。付近の樹木は地表から1ⅿぐらいまで焼け焦げて、震災時の山火事の痕跡です。日陰には残雪も見られました。

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不動明王像と一ノ滝

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二ノ滝

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三ノ滝

f:id:hm-yamaneko:20180929184906j:plain山道の石門のような所

そこからさらに斜面を登ると、やや独立したピークに到達しました。ここは自然地形ですが、物見に適した地形です。南側は斜面で北側や東側は絶壁になっています。

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西から見た物見

北側(左側)は高さ30mぐらい垂直に切り立った断崖です。

 

自然の鞍部を隔てたより高い場所には、山頂東側尾根の先端が見えます。この尾根のうえに登るり、周囲を見渡すと、ようやく山頂部分へに到達したのを実感しました。

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副郭東端の物見(南から)

尾根の東端からは太平洋がよく見えますが、この日は曇っていました。尾根の上面はかすかな段差があり、いくらか人工造成が認められます。東端部は間違いなく物見だと思います。東西に細長い山頂部で、長さは約150ⅿ、東端から40ⅿあまりのところに幅11ⅿ、深さ4ⅿの堀(空堀)が西側を囲むように掘られていて、これよりも西側が山城

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                            安倍館(高舘)中心部           ※ 転載は御遠慮ください

 

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堀と主郭(東から)

 

 

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東側の堀(南から)

 

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南尾根の堀(西から)

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西側尾根と堀を見下ろす

の主体部であることがわかります。ここから西端までは98ⅿほど、西側は二股の尾根になっていて、尾根の付け根はやや小さな堀で区切られています。頂上平坦部の幅は12ⅿ~16ⅿあり、この部分が主郭(しゅかく:本丸に相当する主体部)になります。中央部と東端は幾分高く、中央の標高が333ⅿ、細長い主郭の中は、1ⅿ内外のわずかな段差や低い小規模な土塁で区分され、8区画ほどに区切られています。山城の当時はそれぞれに山小屋のような小さな建物が建てられていたのではないでしょうか。

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 主郭の内部(西から)

 

f:id:hm-yamaneko:20180929205815j:plain 主郭南側の露岩

 この山城は平安時代後期の安倍氏の残党が立てこもり、桜川館の源義家に攻められて落城し、橋野方面に逃れた伝承があるそうです。山城は堀とテラスが周回する古風な構造ですが、西側尾根と南尾根の湾曲した堀の構えなど、遺構の様子からはもっと新しく、室町時代のような印象を受けます。規模からみて200人も立てこもれないくらいこじんまりとした山城で、日常的に大人数が籠城するような城ではありません。この山は北の大槌城からもよく見える山で、周囲の眺望にも優れています。おそらくは室町時代の大槌城の支城で、周囲の監視や狼煙台として伝達機能を担った山城だったのではないでしょうか。

            (hm-yamaneko)

 

 

 

 

国見峠から貝吹岳

 今から7年ほど前の夏、主治医の奨めもあり、リハビリを兼ねて国見峠を歩きました。国見峠は岩手県秋田県の境にあり、現在は国道46号線の仙岩トンネルが貝吹岳の中腹を通じています。峠の北東側、国見温泉に車を駐車して、沢を渡り、国見峠に向かいました。

f:id:hm-yamaneko:20180924212817j:plain 国見温泉下の沢

 

f:id:hm-yamaneko:20180924213808j:plain 沢から国見温泉を見上げる

 

f:id:hm-yamaneko:20180924214206j:plain 国見峠への山道

廻りは笹がびっしりでよく見えません。

f:id:hm-yamaneko:20180924214401j:plain 是れより北東盛岡領の石碑

 温泉から30分ほどで国見峠頂上に到達しました。幕末に建てられた「従是北東盛岡領」の石碑が出迎えます。戊辰戦争では盛岡藩兵がここから秋田領に進軍しました。

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峠の西側(秋田側)にある石祠です

f:id:hm-yamaneko:20180924214950j:plain 国見峠

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国見峠から仙岩峠への道 途中笹藪で道がわからないところもありました。

f:id:hm-yamaneko:20180924221432j:plain仙岩峠のヒヤ潟

国見峠からの坂道を下ると、この池の東側に出てきます。

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f:id:hm-yamaneko:20180924221843j:plain  仙岩峠から秋田側を見る

 

f:id:hm-yamaneko:20180924222055j:plain 貝吹岳

貝吹岳を南に見ながら峠の道を南へと進みます。

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山頂のすぐ下、犬走りのようなテラスが存在し、笹の水平の段になって見えます。

 

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正午ごろ、貝吹岳に登頂しました。西の方を眺めてみると、田沢湖も見えました。山頂部分は瓢箪形で、鞍部には通信用反射板が二つ建てられています。

 この貝吹岳は、戦国時代滴石の領主であった戸沢氏が、敵の攻撃によって秋田に遁れる途中、この山から滴石に向けて法螺貝を吹き鳴らしたことに由来している山だそうです。秋田県側の仙北門屋から角館も戸沢氏が領主になっており、おそらくは一族だろうと思われます。岩手県側では天文9年(1540)斯波氏、南部氏に滴石城が攻略されて仙北に遁れたと伝えられており、伝承の法螺貝を吹鳴したのはこの時と思われますが、それ以前からこの山は、陸奥岩手と出羽の仙北の戸沢氏の連絡に使用されていたのではないでしょうか。当時の連絡法として法螺貝や鐘を鳴らすほか、狼煙(のろし)を挙げるなどがありました。貝吹岳は砦が置かれ、狼煙台としても機能した山と考えられます。

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 貝吹岳から再び仙岩峠に向い、途中で「従是南西秋田領」の石碑、助け小屋跡を見て、岩手県側に旧道を下りました。旧道は舗装されていますが、所々崩れて道が失われていて危険な場所になっていました。現在は通行禁止区間になっています。国見温泉に登り、車に乗って帰りました。

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雫石から見た貝吹岳