城と館ー室野源太左衛門城館調査録ー

中世山城や古建築など、巡り歩いた情報を発信します。当面の間、過去の訪問先の情報が主になりますが、近い年月日の情報も随時発表していきます。

(仮称)白坂館ー北海道桧山郡松前町白坂ー

APから新居に引っ越して間もないので、部屋の中は荷物でごった返している。本や資料のファイルを、新しい本棚に移動させ、早く片づけたい。段ボール箱から取り出した資料の中からなつかしいファイルが出てきた。北海道の上ノ国町松前町の館跡の記録だった。

2007年2月10日、北海道桧山郡上ノ国町歴史講座の講師を依頼され、上ノ国花沢館、勝山館、洲崎館の話をした。その前年10月17日から18日に、花沢館の縄張調査を行い、併せて、洲崎館、勝山館もご案内いただいたので、この時の調査でわかったことをお話しした。

翌日2月11日、恐縮にも、上ノ国町教育委員会のS藤氏、T田氏に、車で松前まで送っていただいた。途中、ワシリ遺跡(ワシリチャシ)、比石館、原口館、松前大館、松前城をご案内いただいた。

(仮称)白坂館(北東から)

位置図

 

原口館から松前に向かう途中、原口館(推定地)から南に5㌔ほど、江良より北に1㌔ほどのところ、車中から海辺を眺めていたら、チャシか館らしい地形が目に入ったので、両氏にお願いして車を戻していただき、現地を見た。車から降りてみると、海蝕段丘縁辺部に突き出した、平坦な地形と、空堀らしい低みが見えた。あまり時間がないので、急ぎ平坦部の輪郭と規模を歩測し、記録した。

日本海の海蝕段丘は比高30mほど。南側は小さな沢が流れて、東側を大小2重の空堀で区画。北側は低い沢状地形。西側が段丘崖という地形。空堀の西側は、東西45m、南北30mの不正形な平坦面で、北東側が隅欠けのように抉れている。北東側は後世に削られているので、空堀は2条とも不明確になっている。

堀は内側が大きく、幅10m、深さは3mほどで、外側に低い土塁を伴う。3~4m外側には、幅3m弱の細い空堀が、深さ80センチほどのかすかな低みになって、弧を描いている。

曲輪の南西側には、3mほど低く腰曲輪があり、海側に土塁を伴う。

T田氏によれば、小さな堀が南側の沢に出たところが小さな崖になっていて、灰白色の火山灰の堆積があったとのこと。このことから、平安時代の防御性集落の可能性がある。ただし、内側の堀が大きく、平坦地も造成が行き届いていることから、中世後期に和人が再利用した城館であるのかもしれない。

思いがけず、このような遺跡に行き当たったのであるが、この当時は、まだ城館跡やチャシ跡としての認識はなかったそうである。付近の地名から、とりあえず(仮称)白坂館としておきたい。

今は、どのようになっているだろうか…。



 

(仮称)白坂館(南東から)

 

中野館(盛岡市茶畑)

 

 盛岡市中心市街地南東部。盛岡八幡宮の南側、茶畑一丁目地内にある松尾神社は酒造業者の信仰を集める神社である。この神社がある高台は、戦国末期の中野館に二ノ丸の先端部で、西側麓を通じた街道を監視する物見が置かれた場所と考えられる。

 中野館は、昔、飛鳥川館とも呼ばれたと伝承があるが、詳細は不明。天正年間(1573~1591)、中野康実(九戸政実の弟)がこれに籠り、中野館と呼ばれている。御当家(南部家)秘書(奥南旧指録・祐清私記他)に、「福士伊勢を慶膳館(不来方城)に、中野修理(九戸政実の弟)を中野館に、東西に相対して街道を挟む」とある。

 現在、松尾神社前から八幡宮前、住吉神社前、天満宮下、加賀野妙泉寺下、春木場から中津川を渡河し、山岸阿弥陀堂(山岸小学校)、愛宕下、松坂、法泉寺、高松神社東側、黒石野と北上する道は、南部氏の盛岡城下町開設以前の、古い街道であった。この街道は、南は中世の奥大道(おくだいどう・おくのおおみち:現在の国道4号線付近を通していた)が分岐して、現在の西鹿渡から門(かど)に渡河し、経ヶ森下、安庭、見石、簗川を渡河し、新山館、茶畑と、北上してきた道である。南の志和、遠野方面から来て、岩手郡不来方に入る道で、その入口を守る城館が中野館であった。

 中野館から見て、中津川の対岸にあった不来方城は、慶膳館・日戸館・淡路館で構成される大型の城館で、南北朝時代末期以後、不来方の領主福士氏が居住していた。この場所は北上川と中津川、雫石川が合流し、古来、岩手津(いわてのつ)という川湊があり、北上川舟運の要地だった。また、不来方には平安時代後期の十一面観世音像や金剛力士像を祀る仁王観音堂が存在したほか、三ツ石や徳戸部石、烏帽子石などの巨岩・怪石が信仰される聖地でもあった。現在も岩手県庁、盛岡市役所所在地であり、不来方は古い時代から政治経済の中心地であった。

元亀3年(1572)ごろ、九戸政実の弟康実は、斯波御所斯波詮直(詮元)に婿入りし、斯波郡高田村(矢巾町高田)を知行して高田吉兵衛直康となった。直康は斯波高水寺城の一郭にも居館を持っていた。

 天正14年(1586)、高田吉兵衛は、斯波家当主詮直と不和となり、斯波家を出奔。糠部三戸城の南部信直の下に走った。信直は直康に岩手郡中野村を与え、中野吉兵衛康実として、不来方城の福士宮内秀宗とともに、斯波郡の警戒と調略にあたらせた。

 斯波詮直は直ちに兵をあげて、南部氏の属城見前城(盛岡市西見前)を奪取し、中野館攻略に向かう。この時斯波勢が本陣としたのが、茶畑の簗川北岸の新山館といわれている。中野館の危急を知った福士秀宗は、手勢80騎で救援に向かい、中野勢と合流し、斯波勢を撃退している。その後、再び斯波勢と福士・中野勢が北上川を挟んで対峙した時、斯波詮直自ら川に乗り入れて攻撃しようとしたものの、斯波家家臣たちはこれに続くことなく、対岸の福士・中野勢から盛んに矢を射かけられ、斯波勢は引き返したといわれている。

 斯波御所が南部信直に攻略されたのは、天正16年(1588)夏のことである。

 盛岡八幡宮裏手の丘陵は、南北に長く、その南西部は高さを減じて、括れたのち、南西側に広い台地を形成。ここに中野館の本丸、二ノ丸が存在した。現在、市街化著しく、本丸は根こそぎ削られて平坦になってしまった。元の地形は、本丸を要に、二ノ丸が三方をとりまき、その西端が松尾神社のある高まりで、物見が置かれていたらしい。二ノ丸南東斜面には、数段の腰曲輪が存在した。

 東側、二ノ丸東側から一段下の腰曲輪にかけては、幕末期の山蔭窯跡がある。

 

中野館位置図   (盛岡市教委2019に加筆)

中野館地形復元図(盛岡市教委2019に加筆)

昭和23年中野館周辺写真

引用文献

盛岡市教育委員会2019年3月『山蔭焼窯跡』

宇部館(野田城)

 岩手県久慈市宇部、同県九戸郡野田村との境界に近い、陸中宇部駅の西方400m、宇部川と北の腰川の合流点に突き出した丘陵の上に立地している。下の平地との比高は約20mである。

宇部館位置図   国土地理院地図

 

宇部館位置       宇部館は八幡館とも呼ばれる                      Google

 

西方の北の腰遺跡とは二重の大きな空堀で区画し、単郭の主郭を造りだしている。主郭は東西190m、南北は30mから70m、西方が高く、東方先端に行くに従い高さを減じて、大きく五段に造成されている。

 東麓には、東西80m、南北60mの長方形の平場があり、江戸時代にはここに盛岡藩野田通代官所が置かれていた。主郭東端の中腹からは、代官所の北と南に土塁が伸びており、山上の主郭と代官所の平地を一体化している。このことから、代官所の平地は、戦国期には平時の居館が置かれていたらしい。敷地の北東隅は、鬼門除けと思われる隅欠がある。

 現在代官所の敷地は中央を東西の道が貫通しているが、この道の突き当りから登城路が曲折して登り、主郭南東端に到達している。これが城館の大手道であろう。曲折する中途には、北側土塁に寄せて枡形状の空間を造り、ここを経由して主郭南東虎口に登る。

 西側の搦手口は、北側の川沿いから、西側二重堀の中を進み、東に折れて土塁の虎口から西側腰曲輪に入り、すぐに右に折れて土塁の喰違い虎口を通過、主郭西端に入る。

 主郭の南斜面は宇部川の浸食を受けて断崖となる。北側は南側よりもやや斜面が緩いけれども、こちらには鋸歯状の折邪(おれひずみ)が連続し、斜面に対し死角がないように工夫されている。北辺の西半分は縁辺に土塁が築かれていて、塁線は斜面の曲折と一致している。

 

二重堀の発掘調査現地説明会

発掘調査では15世紀~16世紀の中国染付皿、碗の破片が出土している。

宇部館は16世紀代の野田城と推定され、奥羽仕置後の天正20年(1592)破却された。ただし、野田氏の系譜によれば、慶長五年(1600)まで野田氏はこの城に居住しており、城館の主な機能はそれまで存続していたらしい。後に野田氏が移った新館(野田村)は発掘調査では城館としての造成は認められず、より古い単郭周壕型の館(古代末~中世初期?)に重複して屋敷が営まれているのみであった。

 天正末年の破却は、大手口の門や柵などが撤去されたぐらいに留められていた可能性が高い。新しく造られた新館は、野田氏の領地を治める拠点ではあったが、城館としての構えではなかったと考えられる。

 

引用参考文献

岩手県埋蔵文化財センター2016『宇部館跡、北の腰遺跡発掘調査報告書』

比石館(北海道桧山郡上ノ国町石崎)

比石館位置図     国土地理院地図に加筆)


北から見た比石館      中央の灯台の岬が館跡

 いわゆる道南十二館の一つ、畠山重忠の末裔とされる厚谷将監重政が1440年ごろ渡道し築いた館とされる。康正三年(長禄元:1457)コシャマイン軍の攻撃により陥落。その後再興されたといわれる。上ノ国町教育委員会の発掘調査によれば、主郭内部からは16世紀代の陶磁器類が出土したが、15世紀半ばの遺物は確認されなかったという。調査結果からは戦国時代後期の城館という事になる。まだ、大半の部分が未調査であり、将来の調査で15世紀代の遺物が確認される可能性も捨てきれない。

 この館は石崎川南岸の館野台地から、北へ延びた岬を活用しており、東側は石崎漁港となっている。南側は細い尾根で館野台地に続くが、三方は切り立った崖になっており、南側を幅12m、深さ4mほどの堀切で断ち切っている。ここには東側の漁港からの上り道が堀切に到達し、北へ曲がって郭内に入っている。当時の大手道であろう。堀切中央部は現在埋め立てられて石垣が積まれている。また、10mほど南にも、地形が東側から切れ込んで,尾根がくびれている箇所がある。ここも堀切が存在した可能性があるが、進入路の埋立により明確ではない。

  

比石館平面図Googleに加筆)

堀切の南から見た比石館    堀切は中央が埋め立てられて、進入路になっている。向かって右下の漁港からの道が一旦堀切に入り、曲折して郭内へ上る

郭内から見た堀切と虎口(手前) 埋め立てられた堀切の向こう側にも東(左)から切れ込んだ箇所があり、さらに一条の堀切が存在した可能性もあるが明確ではない。

 

 郭内には現在灯台と館神の祠が存在する。主郭は南北90m、東西は20mほどである。北側は細い尾根が低く突出するが、北端は絶壁になっている。内部は自然の岬の地形を活用したもので、自然のゆるやかな起伏があって、完全な平坦地にはなっていない。また、周囲に腰曲輪なども造成されていない。

 単郭構造のシンプルな構えであり、平時の屋敷は漁港南側の平坦地に存在したと推測されている。河口の湊を守ることを主目的とした城館であるが、南の松前大館(松前町)と、北の勝山館(上ノ国町)の間を中継する役割があったと考えられる。

 

湯の高館(花巻市台)

 岩手県花巻市台にある山城、東方に存在した金谷館(湯の舘:館主は高橋氏)の詰城である。場所は花巻温泉の西側、国立花巻温泉病院の南裏手の山上で、標高は240m、比高は90mの急峻な尾根に築かれている。南側は尾根の鞍部になっており、ここに三条の堀切が設けられ、城を独立させている。

図1 高館位置図

 

 南部叢書の聞老遺事に収録される「稗貫状」及び「和賀古伝記」、「吾妻むかし物語」により、合戦の経過を見る。

 永享七年(1435)の五月、和賀宗家と庶子の須々孫氏の間に、確執があり、南部遠州(南部遠江長安)は、不来方城主福士伊勢守を派遣し、両者を調停した。しかしこの結果に須々孫氏は不満を募らせ、和賀郡黒沢尻氏が同調し、これに隣の稗貫羽州(稗貫出羽守)が合流。11月、和賀氏の飯土肥城(北上市飯豊)を攻撃し陥落させた。これによって兵乱は和賀郡・稗貫郡一円に拡大した。

 

写真1 飯土肥城(北上市飯豊)

 この城を稗貫羽州らが攻撃したことで大乱になった

 

 奥州探題大崎持詮は、兵乱を鎮圧するため、斯波西御所を大将軍とする軍を編成し、南部遠州(南部遠江長安)ほか、北奥各地の武士が動員されたが、寒気と風雪激しくなり、鎮圧軍は岩手郡不来方城(盛岡市内丸)に待機。

 永享8年(1436)2月10日旗揚げし、3月24日、寺林城花巻市中寺林)を攻めたのち、3月22日、稗貫十八ヶ沢城(さかりがさわじょう:花巻市松園付近)を囲む。厳重な防御を施した城郭をめぐり、連日激しい攻防戦が行われ、28日には一戸南部實俊が強弓を引いて活躍した。

 5月27日、近くの川中(北上川?)で激戦。

 5月28日、台の湯ノ楯(金矢館:花巻市金矢)を攻撃に向かう。城主の高橋氏は防戦かなわず、詰城の高館に籠城し抵抗した。南部長安は高館を包囲して水の手を抑えたところ、やがて城内は枯渇し、開城した。

 同年夏の盛り、奥州探題大崎持詮が出陣。葛西氏からは薄衣美濃が鳥谷崎(花巻市花城町)に布陣、江刺氏一族は和賀氏の二子城を警護した。

 稗貫出羽守は瑞興寺住職を仲立ちに降伏し、半年以上にわたる戦乱は収まった。

 

第2図 湯の高館縄張図

 

写真2 東から見た湯の高館   

 20年ほど前、積雪期の撮影で、山頂の左側(南側)尾根に3か所の堀切が見える 

 

 この城は山頂に本曲輪をおいて、その周囲に数段の腰曲輪や段築を配置したもので、比較的単純な、単郭周壕型の構成に近い。第2図のa,b,cの平場が本曲輪に該当し、周囲をd,e,fの、三つの細長い平場が取り巻いている。この三つの細長い平場はいわゆる腰曲輪というもので、空堀が埋没した姿であるのかもしれない。fの北には、さらに三段の小さな平場が段築される。第2図を見ていただくと、aの南東隅が長方形に小高くなっており、櫓が想定される。また、aの南西隅がコの字形に削り込まれているのは、ここに見張り小屋が存在した可能性がある。ここから土塁が伸びており、虎口になっていたと考えられる。これが山城の全てである。

 湯の高館は15世紀前半の山城の形態をそのまま留めているらしく、小城ながら、歴史的に貴重な山城遺構と考えられる。また、今回は詳述しないが、飯土肥城(飯豊城:北上市飯豊)も、高館と同様に、合戦当時の遺構を伝える山城として貴重である。

 なお、稗貫出羽守が籠城した十八ヶ沢城については、鳥谷崎城(花巻城)とする説もあるけれども、地形や近世の地誌類の記述から、やや北西よりの花巻市下幅から桜台一丁目にかけての段丘上である可能性がある。これについては、別途投稿したい。

 

〇 引用・参考文献

遠藤巌1997「いわゆる稗貫状について」第二回大崎氏シンポジウム報告集

滴石古館・雫石城(雫石御所)

第1図 関係地図                国土地理院地図に加筆)

   雫石盆地は、岩手郡南西部にあたり、北上川沿いの岩手郡、斯波郡から、出羽の秋田方面へ向かう道筋で、周囲を山に囲まれた盆地である。中世滴石の鎌倉時代の動向は不明確。滴石の戸沢氏(滴石氏)が史料に明確に表れるのは、南北朝内乱期に入ってからである。

 延元3年(暦応元年:1338)南朝陸奥北畠顕家は、足利勢討滅のため西上したが、和泉堺浦(大阪府堺市)で、足利の高師冬と対戦して敗死。この時、南部政長(八戸氏:根城南部氏)の兄師行も、顕家と運命を共にしている。

 吉野の南朝からは、北畠顕家の弟顕信を、陸奥鎮守府将軍として奥州に派遣した。

 興国元年(1340)牡鹿郡葛西氏の許に逗留していた北畠顕信は、南部政長に対して、政長らが岩手郡西根(岩手郡の北西部)足利勢を打ち破り、西根(八幡平市西根)に要害を構えたことを祝した。また、明春には、和賀氏、滴石氏が一手となり(共同して)、斯波氏を南北から攻撃すべきである。それに先立ち、斯波郡河東の領主河村六郎を御方に勧誘べきこと伝えている。足利方の斯波氏の孤立化を図ったのだろう。翌興国2年(1341)4月には栗谷河(盛岡市厨川)において合戦があり、北朝の稗貫勢が大敗している。

 正平2年/貞和3年(1347)、顕信は伊達郡霊山城に拠るが、室町幕府奥州管領の吉良貞家によって霊山城は陥落。敗れた北畠顕信は滴石城に入る。顕信は正平6年/観応2年(1351)ごろまで滴石城に逗留していた。この間、正平4年/貞和5年(1349)3月16日には、奥州管領吉良貞家が「糠部・滴石以下凶徒対治」(飯野家文書)。正平5年/観応元年(1350)5月には奥州管領畠山国氏が「糠部・滴石凶徒対治」(留守家文)として軍勢を招集しており、南部政長の糠部と、北畠顕信が拠る滴石が、北朝方の攻撃対象となった。同年6月18日には、岩手郡上田城北朝勢を攻囲していた南部政長に対し、和議が成立したので、囲みを解くように命じている。滴石からの指令だろう。

 その後北畠顕信は正平8年/文和2年(1353)宇津峰城(福島県郡山市須賀川市)に籠城するも、吉良定家の攻撃に敗れ、出羽へ逃れた。

 この滴石城は、雫石川黒沢川合流点に突き出した滴石古館がその遺跡と考えられる。堀の埋没など、地形改変が進んでいるが、空堀の痕跡を辿ると、後の雫石城に対峙する古館の最高所に曲輪が一つ。この南東側に続く西面の段丘崖に曲輪が4つ以上並列しているのが読み取れる。ここは滴石戸沢氏の居城と推定され、南北朝当時まで遡る可能性がある。

 また、盆地西方の山津田にある大館は、滴石古館(滴石城)の詰城と推定されている、多郭構造の大きな山城である。(註1)。

第2図 滴石古館・雫石城位置図            国土地理院地図に加筆)

第3図 滴石古館縄張図

 南北朝合一の後、滴石氏は滴石盆地をそのまま領有していたと思われる。

 永享7年から8年(1435~1436)に勃発した、和賀・稗貫合戦では、斯波御所(西御所)の指揮のもと、北奥の武士が多数動員され、稗貫氏鎮圧にあたった(稗貫状)。斯波御所の指揮下に南部遠州遠江長安)のほか、岩手・滴石・閉伊も入っており、滴石氏は健在だった。

 滴石氏(戸沢氏)は、南北朝から室町時代、戦国時代の天文9年にかけて、滴石の領主として存続した。また、出羽の仙北北浦地方にも戸沢氏が居住しており、滴石氏と一族であるという。ただ、出羽の戸沢氏については、南北朝時代南朝から北朝に転向し、仙北郡に所領を得た和賀氏一族(4)という指摘もあり、はっきりしない。

 雫石盆地と出羽仙北郡との分水嶺には貝吹岳(H=992m)がある。後年滴氏戸沢氏が出羽に退去する際に、貝を吹鳴したという伝承があるが、実際には、出羽と滴石の連絡に使用された狼煙台の可能性がある(5)。

 天文9年(1540)、志和郡の斯波御所が岩手郡に侵攻。滴氏戸沢氏を出羽仙北に追い落とした。先述の滴石戸沢氏の退去はこの時のことと考えられる。従来、盛岡南部氏の伝記では、三戸南部家の南部晴政の意向により、叔父石川高信(南部信直の父)が滴石を攻略したと伝えている。

 ただ、その後の経過を考慮すると、この時の軍事行動が、三戸南部氏の独力でなしえたとは考えにくい。恐らくは斯波御所が主導して滴石攻略が実行されたのだろう。それは、天文年間(1532~1554)の後半に、斯波御所の二人の弟が、滴石と猪去(盛岡市猪去)に分知されて、斯波高水寺の斯波御所と、雫石御所、猪去御所の三御所体制が整った。このころ、岩手郡不来方(盛岡)、厨川、太田、猪去、雫石は斯波御所の領域となった。

 岩手郡には一戸南部氏が北西部の西根、平舘方面に早くから進出しており、三戸南部氏の庶流田子高信(石川高信)も一方井氏(岩手町)の娘を娶り、後の南部信直が誕生している。また、九戸政実不来方福士氏と縁戚となったほか、自身の弟康実を、斯波御所に婿入りさせている。九戸氏や久慈氏も、斯波御所と深いつながりを持っていた。

 この後、弘治2年(1556)、斯波御所は南の稗貫郡に侵攻し、稗貫重臣の瀬川氏の居城大瀬川館を攻略したほか、翌年には斯波郡南東部に接する、稗貫郡の大迫、亀ケ森両氏を内応させて勢力下においた後、斯波一族を稗貫当主に据えた。稗貫氏は斯波御所に飲み込まれた形になった。

 永禄元年(1558)には、福士領内の不来方愛宕堂宮殿を斯波御所が再興している。岩手郡南の要であった福士氏もまた、斯波氏の支配下に属していた(北上市史第2巻)。

 また、和賀氏や、遠野の阿曽沼氏との同盟を進め、和賀氏、阿曽沼氏配下の武士が、斯波氏へ多く出仕し、岩手郡太田、大釜にも和賀氏配下の達曽部氏が居住していた。つまり、斯波御所の勢力は、斯波郡を中心に南は稗貫、和賀、遠野。北は岩手郡南半部に及び、斯波御所を盟主とした広域勢力と秩序が形成された。従来は、天文9年に南部晴政が滴石を攻略したのち、ほどなくして斯波氏に滴石が奪われたとされてきたが、これはあまりにも不自然である。また斯波御所は、永禄元年(1558)に福士氏領内の不来方愛宕堂宮殿を再興しており、岩手郡南の要であった福士氏もまた、斯波氏の支配下に属していた。天文9年の滴石侵攻を、南部晴政の命を受けた石川高信の実行とするのは、後に三戸南部家を相続し盛岡藩祖となった、南部信直の実父高信の功績を喧伝するための、後世の潤色であろう。

 この斯波氏の雫石御所成立の時に、戸沢氏の滴石古館から、雫石城への移転が行われたと考えられる。

 

第4図 雫石城縄張図

 

本丸の八幡宮

八幡宮を廻る土塁

本丸、二ノ丸間の空堀

城内を通じる街道(本丸内)

 新しい雫石城は雫石町の下町にある。ここは古館の北西側の地続きで、現在秋田新幹線が通じる掘割がその東限にあたる。南東から北西に延びる街道が城内を通じ、これと直交する空堀や堀切により、城内を5~6郭に分割し、段丘上を広く、連郭式に縄張している。早くから宅地化が進行し、縄張が一部不明瞭なところがある。

 中心部の本丸は、北東部に八幡宮が鎮座し、方形の土塁が廻る。本丸東側は二重の空堀で区画し、東側には出丸とみられる曲輪がある。本丸西側には二ノ丸、三ノ丸があり、三ノ丸西側の空堀は大きい。この西側にも1条か2条の小さな空堀が存在し、道路の南に永昌寺がある。このあたりは外曲輪で、家臣屋敷などが想定されている。また、西方の臨済寺、広養寺の付近も空堀に囲まれて複数の曲輪が認められる。城域の一部なのか、時期の異なる城館なのか、判断に迷う。この北側道路沿いには、藩政時代に滴石代官所が存在した。

 雫石城(雫石御所)は天正14年(1586)10月下旬までに、南部信直によって攻略された。この年の8月、信直は加賀の前田利家の下へ、重臣北信愛を派遣し、豊臣秀吉に馬、鷹、太刀を献上して臣従の伺いを立てた。8月12日付けで豊臣秀吉から鷹などの返礼とともに、前田利家より「内證之趣」について聞き入れたこと、今後は前田利家に相談すべきことを伝えている(盛岡南部家文書)。雫石攻略は、豊臣政権の意向を伺い、了解の上で実施されたと考えられる。翌、天正15年6月29日付けで、前田利家南部信直に対し、豊臣秀吉への執成しを粗略なく行うことを、血判起請文にて取り交わした。

 天正16年7月下旬から8月初めにかけて、斯波御所高水寺城は、南部信直により攻略された。2年後の天正18年(1590)7月27日、南部信直に対し、南部内七郡の本領安堵の朱印状が交付され、南部信直は大名としての地位を確かなものとした。

 雫石城は南部信直直轄の城として、代官が置かれたが、天正20年(1592)、城割で破却された。

註1 本ブログの2021年5月11日「大館ー中世滴石の詰城かー」を参照

三戸城 1 ー立地と縄張ー

 

 青森県の南端、三戸郡三戸町にある山城で、戦国時代は三戸南部氏居城。慶長8年(1603)盛岡藩成立後、南部利直は福岡城二戸市郡山城紫波町)、三戸城を使用しながら盛岡築城を進めた。寛永10年(1633)盛岡城が完成すると、三戸御古城として存続した。

 

1 立地

 三戸盆地の中央部に、標高130m、比高100mの城山がある。南北の斜面は高く切り立っており、西側が毘沙門平(びしゃもんたい)に続く尾根の鞍部になっている。この城山は、南側は馬淵川(まべちがわ)の氾濫原に臨み、北側の崖下を熊原川が流れる。城山の北東山麓から留ヶ崎の台地が突出し、馬淵川と熊原川は、留ケ崎の先端で合流している。三戸城本体の城山は、その西側に存在する。

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第1図 三戸城位置図

2 歴史ー南部氏と三戸城ー

 現在の青森県東部から岩手県北部にかけての一帯は、糠部(ぬかのぶ)という広大な領域だった。吾妻鏡文治五年の条には「糠部郡」と記され、延久二年(1070)の延久合戦から、平泉藤原氏の統治下において、閉伊郡、久慈郡、糠部郡などが郡となり、本州北端までが国家領域となった。糠部郡は、一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸と、東門・西門・南門・北門の、「九戸四門(くのへしもん」の行政区に区分され、それぞれの戸・門には、土地を代表する有力領主によって納められていた。

 16世紀中半の天文8年(1539)南部彦三郎は、室町幕府将軍足利義晴に謁見。偏諱(へんき)により、南部晴政となった(大館常興日記)。

 このころ、三戸南部氏は、糠部にひろがる戸(へ)の領主の一人であり、一揆的結合をもつ領主連合の宗主(代表者)であった。糠部には、八戸に根城南部氏(八戸氏)、七戸には根城南部氏分家の七戸南部氏、九戸には九戸氏、一戸には一戸南部氏、八戸の櫛引付近には四戸氏(櫛引氏)、久慈郡には久慈氏が存在した。建武の新政から南北朝時代を経て、室町中期ごろまでは、八戸の根城南部氏が総領的地位にあったが、その後は当主の夭折や内紛により、力を低下させた。これに代わって台頭したのは、三戸南部氏と九戸氏で、九戸氏は九戸(岩手県二戸郡九戸村)から二戸(二戸市)に進出し、新たに大規模な九戸城を築城し、居城としていたほか、鹿角方面にも影響力を及ぼした。

 晴政が偏諱を受けた同じ年、三戸南部氏居城の聖寿寺館(本三戸城:青森県三戸郡南部町)は、晴政と家臣赤沼備中の軋轢によって焼失した(南部根源記・祐清私記他)。この後、永禄年間(1552~1555)、南部晴政は、城山に巨大な山城を築いて移り、三戸城とした。険しく広大な山城の築城は、三戸南部氏の勢力を内外に知らしめるとともに、急速に勢力を拡大する、九戸氏に対抗する意味があったのだろう。

 天正9年(1581)ごろ、南部晴政・晴継父子の跡を相続した南部信直は、天正14年から15年にかけて、豊臣政権の有力大名、加賀の前田利家を通じて、豊臣秀吉に臣従した。天正16年7月の末、南部信直は斯波郡高水寺城の斯波詮直(詮基)を攻略。岩手郡・斯波郡を勢力下においた。続いて、天正18年(1586)南部信直は、小田原討伐の軍令により、前田利家の傘下に入り、小田原に参陣。同年7月28日、宇都宮で「南部内七郡」本領安堵の朱印状を交付され、豊臣政権下の大名としての地歩を固めた。同年の奥羽仕置において、小田原不参の大名・国衆は所領を没収された。

 翌天正19年(1591)1月、南部信直と対立していた九戸政実が挙兵。信直派の諸城を攻めた。信直は一戸月館に布陣して、防戦に努めたが、九戸勢の勢い激しく、苦戦を強いられた。3月、嫡子利正(利直)を上洛させ、豊臣秀吉に謁見。国元の情勢を伝えた。7月、豊臣秀吉は甥の秀次を総大将に、奥羽再仕置の軍を編成し、進発させた。9月1日に九戸方の支城、姉帯城(一戸町)・根反城(同)を陥落させ、九戸勢は一戸城(一戸町)を自焼して九戸城に引き退く。翌2日には九戸城が包囲され、豊臣軍の九戸城総攻撃が始まる。9月4日、九戸政実は降伏・開城。九戸政実、久慈政則らは三迫(宮城県栗原市)に連行されて斬首。九戸一揆終結した。

 落城後の九戸城は、蒲生氏郷によって、本丸を要に大改修されて、南部信直に引き渡された。このとき、三戸城も本丸や大手、搦手を中心に石垣が築かれるなど、改修された可能性がある。信直は氏郷を三戸城に歓待し、嫡子南部利直と、氏郷養妹の婚約が成立した。

 9月10日、南部信直は、浅野長吉(長政)とともに岩手郡不来方に到着した。不来方城を検分した浅野長吉は、信直に、この不来方へ居城移転をするよう奨めた。

 その後唐入りで肥前名護屋に出陣していた南部信直は、国元の利直に不来方新城(後の盛岡城)の築城を命じている。慶長2年(1597)3月6日、新城築城の鍬初の儀が執り行われた。

 慶長4年(1599)10月、信直が病没。信直の跡を継いだ利直は、徳川家康に従った。慶長8年(1603)江戸に幕府が開かれると、絵図をもって言上し、築城の継続を認められた。利直は浅野長吉の縄張を基に、新城を築き、名を盛岡と改めた。

 盛岡城築城中、南部利直の居城は、九戸城を改修した福岡城であった。盛岡城築城は、冬季間は工事を中断し、岩手・斯波の武士を在番させていた。また、北上川・中津川の氾濫。慶長16年、元和2年の地震による被害が重なり、築城には多くの時を必要としたため、三戸城・郡山城紫波町)も仮の居城として使用された。寛永9年(1632)利直が死去。後継は南部重直(2代藩主)である。

 寛永10年(1633)5月、南部重直が江戸から盛岡に入る。これ以後盛岡城が藩主居城として明治初めまで存続。三戸城は御古城として城代が置かれた。貞享年間(1684~1686)には、城代は廃止され、三戸代官所支配へ移行した。

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三戸城(南から)

 蒲鉾のような山容。南西から北東に延びる城山に築かれる。

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             第2図 三戸城周辺図三戸町教育委員会2021より)

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第3図 三戸城(主要部の現況縄張図)
                 調査・作図 室野秀文(三戸町教育委員会2021より)

3 城の縄張

 城山の中央に本丸をおき、本丸西寄りには城主南部利直の居館。北東部には諸役所が置かれた。居館北側、諸役所西側には石垣が築かれ、重層の櫓が存在した。本丸西側には土塁枡形に石垣を備えた大門があり、ここが本丸表門であった。搦手門は居館の東側、諸役所の南東側に存在した。

 本丸西に二ノ丸があり、ここには利直子息の利康、政直の屋敷。一門の石井氏、鳥谷氏の屋敷があった。二ノ丸から三ノ丸は中軸道路があり、二ノ丸西側には土塁枡形に欅門。三ノ丸には、目時氏、医者の屋敷、道路北には、桜庭氏、北氏の屋敷があった。二ノ丸西側には土塁枡形の鳩門があった。鳩門から下ったところの武者溜まりには、石垣の枡形に綱門があった。ここから坂を下ると、南西の突端、大堀切の上には物見櫓があった。西側へ坂を下ると坂下に大手門が構えられていた。本丸北側の低みには谷丸があり、諸役所の北に淡路丸、東には亀ヶ池、鶴ヶ池のある曲輪があり、南に上段馬屋、北に奥瀬氏の屋敷があった。この下の腰曲輪には鍛治屋敷。東側には石垣を備えた喰違虎口に鍛治屋門がある。鍛治屋門の坂下には、留ケ崎の台地が伸びて。三戸地侍たちの屋敷群があった。中軸の道路は北東へ延び、坂下に土塁の平虎口がある。留ケ崎下段にも道路が伸び、馬淵川の渡し場につながる。留ヶ崎上段には、中軸道路に直行し、熊原川へと下る道がある。一段下がった平坦部は土塁に囲まれ、広い一郭を造る。その東端、熊原川に面し、土塁の嘴状虎口がある。これとは反対側、留ケ崎南側中腹にも平場があり、ここにも枡形虎口が構えられていたと思われるが、鉄道の開削により不明である。

 

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         写真2 三戸城絵図 (三戸町教委2021に加筆)

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         写真3 三戸城本丸付近 (三戸町教委2021より)

◆引用文献

三戸町教育委員会2021年3月『三戸城跡発掘調査総括報告書』